18世紀、革命の機運に揺れるフランスに、一人の利発な美少女が誕生しました。
彼女の名は、マノン・フィリッポン。
幼い頃から知性と美貌を兼ね備えた彼女は、時代の波に翻弄されながら自らの運命を革命の中に見出すことになります。
成長した彼女は結婚を機に政局の真っただ中に飛び込んでいき、その命を捧げることとなりました。
常に理性的で、一時は派閥の女王のような立場まで上りつめたマノンですが、最期は断頭台で短い生涯を終えました。
今回は、そんな彼女の人生を辿ってみました。
生まれついての上昇志向
のちに「ロラン夫人」と呼ばれることになるマノン・フィリポンは、1754年にパリのシテ島オルロージュ河岸で、彫金師ガシャン・フィリポンの娘として生まれました。
父親は女遊びと賭け事を好む男でしたが、工房を構え、自ら製作した彫金品や宝石を販売する店を経営していました。そのため、マノンの家庭は貧しくもなく、かといって特別に裕福でもない、中産階級の典型的な市民家庭でした。
しかし、マノンは幼い頃から平凡な生活に飽き足らず、より充実した人生を求める少女でした。
近所でも評判になるほど美しく利発だった彼女は、わずか5歳前後で文字を覚え、本を読むことを楽しむようになります。
同世代の子どもや同じ階級の人々との交流は、彼女にとって退屈なものだったのです。
当初、マノンは平民に生まれた自分を不遇だと感じ、貴族に強い憧れを抱いていました。しかし、どこに行っても貴族たちから冷淡で屈辱的な扱いを受けるうちに、その憧れは次第に憎しみへと変わっていったのです。
こうして、早熟な彼女は読書を通じてヴォルテールやジャン=ジャック・ルソーといった啓蒙思想家の影響を受け「腐敗した貴族社会を変えたい」という革命への情熱を抱くようになったのです。
あくまで理性的な結婚
「美貌と教養と上昇志向」、この3つを兼ね備えたマノンは、1780年、26歳のときに多くの求婚者の中から、20歳年上の哲学者で工業監査官のロラン・ド・ラ・プティエールを結婚相手に選びました。
「平民」との結婚を避けていた彼女にとって、貴族ではないものの学識を持ち官職にも就いていたロランは、条件として許容の範囲だったのでしょう。
こうして「ロラン夫人」となった彼女は、1784年には夫に伴いリヨンに赴き、立派な家屋敷に召使い付きの生活を手に入れます。
また、夫を通じて知識人たちと交流を深め、その知的刺激に満足を感じるようになりました。
こうして彼女は、あくまで上流の暮らしを望みながら「腐敗した貴族社会が一刻も早く改革されるべき」という思いをさらに強めていったのです。
そしてロラン夫人として安泰な生活を叶えた彼女に、更なる転機が訪れます。夫ロランがリヨン代表として憲法制定国民議会に派遣されることになったのです。
ロラン夫人は、この好機を見逃しませんでした。
この時とばかりに夫を叱咤激励し、一家を上げてのパリ移住を決めてしまうのです。
「ついに、自分の才能を存分に発揮できる時が来た」と感じた彼女は、大きな期待を胸に新たな生活への一歩を踏み出しました。
ジロンド派の女王へ
生まれ育ったパリに戻ってきたロラン夫人は、精力的に活動を展開しました。
表向きには夫ロランが主宰でしたが、実際には彼女が采配を振るう自宅のサロンには、多くの有力者たちが頻繁に出入りするようになります。
その中には、後にジロンド派の中心人物となるブリッソーやペティヨン、ビュゾーに加え、ジャコバン派のロベスピエールの姿もありました。
※ジロンド派とジャコバン派とは。
どちらも王政には反対する立場。ジロンド派は穏健派で、ルイ16世を国外追放してブルボン家の血を引く者を新たな中心に据えることを提案。一方、ジャコバン派は過激派で、王制の廃止とルイ16世の処刑を主張した。
こうしたマノンの振る舞いは表面的には夫の陰に隠れ、賢明に気遣われたものでした。彼女は女性としての評判を落とすことなく、ジロンド党の大物たちを操り、政治参加することに長けていたのです。
同じ時代「自由のアマゾンヌ」として持て囃された後、獄中で狂死さながらの最期を遂げた*テロワーニュ・ド・メリクールといった女闘士らとは、対照的とも言えます。
*【フランス革命の美貌の女闘士】 テロワーニュの栄光と悲劇 「時代の寵児が裸の屈辱に」
https://kusanomido.com/study/history/western/89113/
かくしてロラン夫人の思惑は見事に実を結び、1792年にはジロンド派が議会で大きな勝利を収めました。
この結果、彼女のサロンに集う常連たちは要職に就き、夫ロランも内務大臣に任命されたのです。
かつて、自分が庶民の出身であることに不満を抱いていた利発な美少女マノンは、今や「ジロンド派の女王」と称されるまでに登り詰め、大臣夫人として大理石造りの官邸に暮らす身となりました。
また、内務大臣となった夫ロランの文章や演説が、実際には夫人によるものだという事実も、世間には知れ渡っていたのです。
断頭台と最期の恋
しかし、政治の混乱は続き、ジロンド派とジャコバン派の対立はさらに激化していきました。
利発なマノンはすぐに自派の敗北を予見し、不眠不休で家族や親しい人々を逃がす準備を進めていました。
しかし事態は、彼女の予想を超える速さで急転します。
当時のフランスは大混乱にあり、1792年には王権が停止し、1793年1月にはルイ16世がギロチンで処刑されました。
そして同年10月、ティユルリー宮殿の国民公会が、数万の民衆と銃を構えた国民衛兵隊兵士らに包囲されてしまったのです。
その結果、31名のジロンド派議員が追放、処刑され、夫ロランは辛うじてパリから逃亡しました。
有名な王妃マリー・アントワネットも、この時に処刑されています。
マノンは逮捕され、アベイ監獄へと送られました。
死を覚悟した彼女は、それまでの理性的な生き方を捨て、最期の時間を激しい恋の情熱に捧げることを選びました。
その相手は、ジロンド派の議員ビュゾーでした。
以前からマノンとビュゾーは恋仲ではないかと噂されていましたが、彼女は妻としての責任感からその思いを抑え、貞淑に振る舞っていました。
しかし、ビュゾーがカーンに逃れてからは、二人は何通もの情熱的な手紙を交わすようになります。牢獄に入ったことで、マノンは初めて理性の枠を超え、自分の感情に正直に恋をする自由を手にしたのです。
その数か月後、マノンは革命広場の断頭台で刑に処されました。39歳没。
妻の死を知った夫ロランも絶望の末に自ら命を絶ち、ビュゾーもまた逃亡の果てに自殺しました。
断頭台へ向かう途中、マノンは自由の女神像の前で「おお、自由よ、汝の名の下にいかに多くの罪が犯されたことか」という言葉を残したと伝えられています。
短くも波乱に満ちた彼女の生涯とこの言葉は、自由のために払われた大きな代償を、今なお私たちに問いかけ続けています。
参考文献:『フランス革命の女たち』池田理代子(著)
文 / 草の実堂編集部
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