以前の「中世の騎士について調べてみた」では騎士の地位や解釈についての話だったが、今回は騎士個人のエピソードにクローズアップして調べてみた。
騎士道の時代
騎士を語るのに切り離せない「中世」という時代は、ヨーロッパでは5世紀から15世紀を示すのが一般的である。
しかし、騎士という枠組みの中で見ると13世紀から14世紀あたりが最盛期と言える。イギリス史上においてはリチャード1世からリチャード2世の治世までであり、この期間が騎士道の主要な時代を含んでいる。
※リチャード1世
リチャード1世は、イングランドの王にして第三回十字軍でも兵を率いた。その戦いぶりから「獅子心王」とも呼ばれ、イスラム勢力の英雄サラディンと戦った人物としても有名である。
騎士道について明確な定義はないが、騎士道の掟とも言うべきものをまとめた「十戒」なるものを考え出した学者がいた。
1.不動の信仰と教会の教えへの服従
2.教会擁護の心構え
3.弱い者への敬意と憐れみ、また彼らを擁護する確固たる気構え
4.愛国心
5.敵前からの退却の拒否
6.異教徒に対する休みなき、また慈悲なき戦い
7.封主に対する厳格な服従。ただし、封主に対して負う義務が髪に対する義務と争わない限り
8.真実と宣言に忠実であること
9.惜しみなく与えること
10.悪の力に対して、いついかなるときも、どんな場所でも、正義を守ること
このようにキリスト教の教えが強く出ているが、これが中世において「騎士」として認められるための条件であった。彼らにとって、軍事的栄光や勇気それ自体は問題ではなかった。戦うことは教会への奉仕であり、そのための目的が軍事行動だったのだ。
以下の項では、こうした時代に騎士道と共に生きた騎士を見ていきたい。
騎士になる生き方
この時代、騎士になるには従者や見習い修行を積まなければならなかった。
少年期になると子馬を与えられ、この馬を使いこなすことを修練として欠かさぬよう教えられる。
10歳から12歳くらいになると大貴族の城や宮殿に送り込まれた。それまでに必要な礼儀作法や武器の扱い方も学ばなくてはいけない。
なかでも王の宮廷こそ最高の学校だったが、そこに入れるのは有力者の子弟だけだった。そうしてしかるべき成果を上げることが出来たものは騎士志望者は従騎士となり、銀の拍車を与えられる。
従者は主人となる騎士のあらゆる面倒を見なくてはならない。給仕をし、鎧兜や武器の手入れをし、着替えを手伝い、馬を引く。戦時においては主のかたわらで戦い、また必要とあれば武器を補充する。これは厳しくも徹底した訓練であった。
17歳から20歳ぐらいまで見習いを終えたものは叙任される日がやってくる。このとき、銀の拍車は「正騎士」の証である金の拍車に取り替えられる。叙任者が軽く肩口を剣で軽く一打ちするなどの儀式が行われた。それは城の庭において他の騎士や婦人、従者などが見守る中、華やかに行われることもあった。
多くの騎士志望者は貴族の出身だったが、騎士制度そのものは排他的なものではなかった。農民も商人も一般の兵士も騎士への階段を昇れたようである。事実、イタリアでは鎧作り師が、イングランドでは仕立て屋が後に貴族となったケースもある。
騎士のリスク
晴れて騎士となり君主から領地を与えられても安心は出来ない。
むしろ、そこからが騎士として能力を試される期間となる。なぜなら、領地を守り、多くの雇用者を養っていかなければならないからである。大きな戦争のない時代には、高位の貴族や王に取り入ろうと必至だったようである。
従者、召使いなどの人件費、武器や防具、馬の調達や維持などには莫大なコストがかかる。武器においても剣だけではなく「Lance(ランス)」と呼ばれる柄の先端に針状の頭が付いた槍など、何種類も存在した。騎士同士の戦いではこの槍を手に、相手を馬上から突き落とすべく戦う。
この時期の鎧は鉄板製鎧が一般的であり、オーダーメイドであるため高価だった。また、鎧製造者についてはある特定の土地の特定の家族が有名であったりと、全ての国に熟練の製造者がいたわけではないため、国家をまたいで発注されたことも多かった。
間違って伝えられていることで多いのがその重さである。騎乗するために他人の手を借りねばいけなかったなどど、ことさら重かったように言われるが、実際は一人でたいていのことが行えるほど軽量であった。戦場においても軽快に動ける鎧は当時の技術の高さを証明している。
さらに馬も戦争に耐えることの出来る良馬が必要であった。騎士は自分の命を預ける馬の飼育、訓練、技能にも誇りを持っていたと言われる。
このように維持費だけでも相当な金額となる。ある試算によると年間の維持費は日本円で数千万から一億円以上にもなったという。現代に例えるなら一般人が走行可能なF1マシンを個人で所有するようなものである。
騎士とは、名誉と引き換えに現実的な問題も抱えるため、その多くが貴族や有力者の出身だった。
大騎士団の誕生
12世紀頃の十字軍運動が盛んだった時代には純粋に聖地エルサレムを守るために組織されていた騎士団も、中世にはいるとその地位が変化した。
弓の性能が向上したことにより、弓を持つ歩兵の重要度が高まったためである。そこで、王や貴族たち名誉のシンボルとして騎士団を設立するようになった。この時代の騎士団こそ、現代の我々がイメージする騎士団である。
ブルー・ガーター騎士団はイングランド王エドワード3世により、14世紀半ばに設立された騎士団である。「尊厳・名誉・名声において世界最高のもの」とされ、人数は24人ではあるがその名声は確かに高い。
しかし、戦闘用騎士団ではなく、あくまで「お飾り」だったためその実力は不明。なお、一般的にはガーター騎士団とも呼ばれるが、これはエドワード3世により創始されたイングランドの最高勲章の名でもある。ガーター騎士団はヨーロッパで現存する最古の歴史を誇っており、各国の王族などが叙勲してきた。
日本の今上天皇も保持しており、ある意味ではガーター騎士団の一員をみなすことが出来る。なお、名前の由来は女性の靴下留めだが、これにも諸説あり明確な理由は定かではない。
※ガーター騎士団の正装
金羊毛騎士団はガーター騎士団以後のヨーロッパでもっとも有名なフランスの騎士団である。1430年にブルターニュ公フィリップにより設立され、その名の由来はブルゴーニュの富の基盤であった羊毛とギリシャの古伝承の両方にある。
1477年にはオーストリアの名門ハプスブルグ家に継承され、さらにその後騎士団はオーストリアとスペインに分かれた。
定員は最盛期には50人以上いたとされる。こちらもスペインで現存し、今上天皇も金羊毛勲章を受章している。
ドラゴン騎士団は、1408年にハンガリー王ジギスムントとその妃により創設された騎士団である。ハンガリー王国を守ることを掲げ、当初は21人で構成された小規模な騎士団だった。その知名度に対して資料は少ないが、ドラキュラ公ことワラキア公ヴラド3世も在籍していたことは有名である。
主だった騎士団を調べてみたが、ここでの「大騎士団」とはその規模ではなく、知名度の高さだと考えていいだろう。
まとめ
調べてみて中世の騎士というのは世俗的ながらも、キリスト教の戒律を守り生きる貴族階級のことであるとわかった。実際に戦場の主役として戦ったのはより過去の時代だったのだ。
しかし、我々にとって「騎士」という言葉にロマンを感じることに変わりないだろう。
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