※皇帝時代のナポレオン
一度は皇帝の座を追われながらも、民衆の支持により再び皇帝に返り咲いた英雄ナポレオン。
しかし、天才の名を欲しいままにした彼は、戦場に戻ると全盛期の才能を活かすことができずに終わってしまった。
多くの戦いに勝利したナポレオンがなぜ、ワーテルローの戦いで敗れたのか調べてみた。
ナポレオン再び
※ナポレオンの帰還
1812年6月、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoleon Bonaparte、1769年8月15日 – 1821年5月5日)は、64万の大軍を率いてロシア遠征を開始するが、結果は兵力の大部分を失う惨敗に終わった。さらに、1814年には、ロシア、プロイセンを中心とする対仏同盟との戦争に敗れ、皇帝の座を追われてエルバ島に幽閉される。
しかし、復古したブルボン王政が民衆の支持を得ていないことを知った彼は、1815年、島を脱出するとパリへ入城、同年3月には民衆の支持を得て再び皇帝に復位した。
これに対し、イギリス、ロシア、オーストリア、そしてプロイセンは、今度こそナポレオンを打倒すべく軍隊の動員を開始する。ナポレオンも同盟軍の全軍が合流しないうちに各個撃破しようと、12万の兵を率いてベルギーへと進軍した。
皇帝ナポレオンが再び戦場に帰還した瞬間であった。
緒戦
※ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー
ベルギーには、ブリュッヒャ―元帥のプロイセン軍約11万と、ウェリントン公アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・オランダ連合軍約10万が駐留していた。
ナポレオンは、6月16日にリニーの戦いでプロイセン軍を後退させ、その追撃にグルーシー元帥の軍団を向かわせると、自らはウェリントンの軍を撃破すべく進軍した。
6月16日夜明け前にブリュッセルのリッチモンド公爵夫人の舞踏会に出席していたウェリントンはフランス軍進行の急報を受け取り、急ぎ自軍を集結するよう命じている。戦場に立ったウェリントンは、約7万の兵を率いてナポレオンを迎撃すべく、ワーテルローの町から少し離れた小高い丘の尾根に沿って布陣した。ワーテルロー村はベルギーのほぼ中央に位置する小さな村である。麓の館や農場は砦とされ、丘全体は防御陣地となっていた。
緒戦では敗走したプロイセン軍だったが、こちらもまだ壊滅したわけではない。後退したプロイセン軍は、ウェリントンの進軍路と並行する北方に向かっており、支援可能な距離を保ち、終始連絡を取り合っていたのだ。
開戦
※総参謀長スールト元帥
6月16日、フランス軍約7万は、同盟軍の対面の丘に布陣した。このとき、総参謀長スールト元帥は、プロイセン軍を追うグルーシー軍団を呼び戻すよう進言するが、ナポレオンは聞き入れなかった。それというのも、長年、ナポレオンの参謀総長を務めたベルティエがナポレオンの復位に馳せ参ぜずドイツで自殺しており、代わってスールト元帥が総参謀長に就任したためである。スールト元帥は参謀畑には不慣れであり、ナポレオンとの意思疎通も不得手であった。
戦場は数日前からの雨でぬかるんでおり、兵の移動には時間がかかる状態だった。そこでナポレオンは地面が乾くまで攻撃開始を遅らせる。正午前に戦闘が開始されるとナポレオンの弟であるジェロームの部隊が麓の館に向けて進撃した。しかし、館はすでに城砦化されており、ジェロームは攻め落とすことが出来ずにいた。
この攻撃は本来、館を攻撃することでウェリントンに中央から援軍を送らせ、手薄になった中央を突破する「陽動作戦」だったが、結局フランス軍はこの拠点に釘付けにされてしまう。
決戦
※ワーテルローの戦い
午前1時、中央ではフランス軍の猛砲撃が始まったが、ウェリントンは主力部隊を丘の反対側へ配置することで被害を最小限に抑えた。フランス軍はデルロン将軍の軍団が中央への攻撃を始めるが、痛み分けの結果となる。その間にも戦場にはプロイセン軍が合流しつつあり、フランス軍は挟撃の危機にさらされた。
ナポレオンはネイ元帥に敵中央陣地を奪取するよう命じた。手薄に思えた敵陣地に突撃するも、イギリス歩兵が組んだ陣形を敗れずに苦戦する。
このとき、同盟軍の戦力も消耗していたが、ウェリントンは兵力をかき集めては、戦線の弱い部分を適切に補強し続けていたのだ。
午後6時、プロイセン軍が続々と戦場に到着し、フランス軍を背後から攻撃し始める。ここでナポレオンは最後の賭けに出た。予備として控えさせていた近衛軍団を投入したのである。それを察したウェリントンは、兵士たちに尾根の反対斜面に伏せ、敵が至近距離に迫るまで待つよう命じた。
そして、ウェリントンの狙い通りフランス軍が尾根に達したそのとき、同盟軍は一斉射撃の後で銃剣突撃を敢行した。近衛軍団は撃退され、戦いの勝敗は決まった。
ナポレオンは、部下の進言を受け入れて撤退を決断する。
ナポレオンの敗因
※戦いから一夜明けたワーテルロー
フランス軍は4万以上が死傷するか捕虜となった。同盟軍も2万を超える死傷者を出しており、いかに凄まじい戦いだったかがわかる。
この戦いでナポレオンは、以前の彼では考えられない判断を何度もしている。
緒戦でプロイセン軍が後退すると、兵力を分散してグルーシー軍団に追撃させたこと。雨によるぬかるみが乾くまで攻撃を遅らせたこと。プロイセン軍が合流しつつあるのに後退しなかったこと。
そして、近衛軍団を投入して力任せの攻撃を行ったこと。
戦局が有利であれば違う意味を持ったこれらの行動は、すべて裏目に出ている。
肉体的にも衰えを見せており、何よりも時間を浪費しがちで戦機を幾度も失っている。
これはつまり、
『流れを読む能力が衰えていた』ということである。
往年の天才的な戦術的技量はすでになくなっていたのだ。
最後に
ワーテルローの戦いとは、ワーテルローにおける大軍同士の激突ではなく、幾つもの戦闘が同時に、もしくは段階的に発生したものである。そのため、事前の作戦よりも、指揮官の素早く的確な判断が必要だった。
この戦いにおけるナポレオンの敗因は、自身の衰えだったのである。
(ナポレオンについては「ナポレオンはなぜ強かったのか調べてみた」を参照)
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