日本の国技(違うか?)野球は近年、あまり観戦をしない、野球のことがよくわからない、観るのは春の選抜と夏の甲子園だけ、もしくはまったく観ないという人も多くなってるようです。
特に女性は。。(ところが、ものすごくハマってて、野球に詳しい人も実際たくさんいますけど 汗)
そこで、おすすめしたいのが東京六大学野球です。六大学野球にはプロ野球とも高校生の甲子園とも違う、独特の面白さ、魅力が詰まっています。
それは、テレビやネットではなく、球場(ボールパーク)で観戦するという新しい体験することで、実感できるものなのです。
もちろん出身ではない方も、ものは試し、ぜひ機会がありましたら、一度神宮球場の足はこんでみてはいかがでしょうか?
たとえ野球のルールを知らなくても楽しめるのが六大学野球です。
その大きな魅力のひとつに各大学の応援があります。自校の学生やOBで学生席、また一般席でも、初対面同士でも肩を組んで校歌を熱唱し、ワンプレイごとに一喜一憂するなど、その一体感は、六大学野球ならではなのかもしれません。
そこまでやりたくないという方も多いでしょう、実際の野球のプレイを楽しみ、プラス応援団やチアガールのパフォーマンスを楽しむのがいちばん良いと思います。
2015年10月4日 東京六大学応援団連盟応援合戦 【第34回歌舞伎町まつり】
東京六大学野球とは
東京六大学野球は、現存している日本の野球のリーグ戦では最も長い歴史があります。
その始まりは 明治36年(1903年)に行われた早稲田大学と慶應義塾大学の対抗戦です。その後、あまりにも過熱する応援合戦が問題となり、早慶戦は中断されてしまいます。
しかし、明治大学、法政大学、立教大学、東京帝国大学(現在の東京大学)が数年ごとにリーグに参加。大正14年(1925年)、他校の説得により早慶戦が再開され、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足しました。
翌年の大正15年(1926年)には神宮球場が完成、連盟の専用球場となりました。
そして、第二次世界大戦後にプロ野球の人気が高まるまで、長く日本の野球人気の中心として、日本に野球を普及、人気を一般に浸透させる大きな役目を果たしました。プロ球界へも多数の人材を輩出しています。
その歴史は、今でも春、秋のリーグ戦は土日に神宮球場で開催されることもあって、現役の学生だけでなく、そのOBなども低価格で楽しめる娯楽としての地位も確立しています。
大学野球連盟の中では一貫して高い平均入場者数を誇っています。
2014 東京六大学野球 秋季 早慶 3回戦
また「東京六大学」は大学野球リーグの枠を超え、所属大学の学生レベルでの交流には不可欠なキーワードとして定着しています。
他のスポーツ競技においても対校戦は広がりをみせ、スポーツ競技以外の分野においても、東京六大学の名の下に、現役学生から卒業後までさまざまな人的繋がりや交流が図られるような情況が生まれ、現在に至っています。
法政大学
法政大学は、明治13年(1880年)設立の東京法学社、 および1886年設立の東京仏学校を前身とする私立総合大学です。
明治初期、近代国家にふさわしい制度づくりの必要性、自由民権運動などの時代背景などから、近代的な法治システムを教育する、フランス法系の私立法律学校として創設されました。
法政大学応援団
歴史ある法政大学を90有余年もの長い間、変わらず団員達を突き動かしたものは、「押忍の精神」です。
時代が恐ろしいスピードで変化するなか、先人達から受け継いできた熱い心を守り抜き、母校の勝利の為に全力を尽くす。それが法政大学応援団であるのです。
第一応援歌「若き日の誇り」
伝統的な法政大学の応援歌です。在校生やOBの間でも『法政大学校歌』以上に知名度を誇っていると言っても過言ではないでしょう。 主に東京六大学野球の応援時に演奏され、応援席の観客らが声を合わせて歌うまさに“法性大学の誇り”なのです。
慶応義塾大学
慶應義塾大学は、明治元年(慶應4年)に中津藩士の福澤諭吉が藩命により江戸築地に開校しした私塾です。
その後、明治4年(1871年)、三田(港区三田)の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ、明治以後、官公私立問わず、近代日本の教育制度、大学制度の立ち上げモデルになり。日本の私立大学では早稲田大学と共に最も古い大学です。
慶應義塾大学應援指導部
設立以来160年以上を迎える応援指導部は、“塾“の気風・文化、その中でも自由闊達さを特に重んじ、伝統を大切にしながらも、常により良い応援席を作るにはどうすればよいかの挑戦を続けています。
第一応援歌「若き血」
昭和2年(1927年)に、当時の学生たちが発案し、義塾出身の音楽評論家野村光一の推薦で堀内敬三が作曲しました。従来の七五調や五七調を無視した新鮮な感覚のこの歌は、慶應義塾の代表的なカレッジソングとして歌い継がれています。
明治大学
明治15年(1881年)にフランス法の自由民権思想を学んだ青年法律家らが創設したとされています。
創立時に確立された建学の精神「権利自由、独立自治」を理念とし、「知の創造と人材の育成を通し、自由で平和、豊かな社会を実現する」ことを大学の使命としています。
明治大学我々明治大学応援団
「団結、剛健、自立、服従、明朗」の団則の下、春秋の東京六大学野球リーグ戦をはじめ、ラグビー、サッカー、アメリカンフットボール部など、各体育会の応援活動を実施しています。応援団の存在意義が問われている現在、応援とは何なのか、原点に立ち返り、未来に繋げための模索をしています。
第一応援歌「紫紺の歌」
明治大学応援団の第一応援歌「紫紺の歌」は、昭和15年(1940年)につくられ、現在に至るまで明大生の間で広く愛唱されています。
当時、応援団団長として南舘信也氏は、同曲作詞公募や詞の補作に携わり、古賀政男への作曲依頼を実現させたのです。
東京大学
明治維新直後に政府は昌平坂学問所、開成所、医学所を統合して大学校を建設しました。その後、明治10年(1877年)に文部省所管の官立東京大学が創設され、第二次世界大戦後、東京大学へ改称し新制国立大学となりました。
東京大学運動会応援部
昭和21年(1946年)の春、東京六大学野球リーグ戦において東大が準優勝を果たした際に、感激した野球部OBが一本の旗を寄贈したことがその成り立ちです。その後、応援部は70年余りを迎え、明治神宮野球場にそびえ立つ“大淡青旗“の下、成長を続けてきました。
第一応援歌「闘魂は」
この「応援歌を作詞した阿部毅一郎さんが2013年に日経新聞で語っています。
「歌い継がれた半世紀に万歳!! 」
東京大学の第一応援歌をご存じだろうか。「闘魂は」という。東大2年生だった20歳の私が昭和35年(1960年)に作詞した。それから半世紀余り。今も歌い継がれている。この歌は私の青春そのもの。おかげで多くの縁をいただきました。…
早稲田大学
明治15年(1882年)に大隈重信の設立した東京専門学校が前進の早稲田大学は、建学の精神として「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を掲げました。
,日本の私立大学として政治学、法律学、文学、商学、理工学、教育学、芸術、スポーツなど様々な分野で、リードしてきたモデル校であり、慶大と共に「私学の雄」と並び称されています。
早稲田大学応援部
明治38年(1905年)日本で始めて組織された応援団体です。現在ではリーダー、 吹奏楽団、チアリーダーズにより構成され、早稲田大学を代表する体育各部の早慶戦をはじめとする多くの試合に応援活動をしています。
第一応援歌「紺碧の空」
昭和2年(1927年)に発表された慶應義塾応援歌「若き血」が一世を風靡し、その「若き血」の凄さに、早稲田はただ圧倒されていました。
早慶戦の勝敗が大学内の雰囲気を大きく左右していたこの時期、早稲田にはどうしても画期的な応援歌が必要でした。
応援部が学内募集した歌詞の中から、西條八十教授が選出したのは、当時高等師範部3年の住治男氏の「紺碧の空」でした。
しかし、作曲者がなかなか決まらない。徹底討議の末、日本コロンビア専属の古関裕而氏に白羽の矢がたてられました。
そしてその彼が、夢中で青春の情熱をぶつけた結果、応援歌「紺碧の空」が誕生したのです。。
昭和6年春(1931年)早慶戦でデビューした「紺碧の空」は、野球部と応援席を一気に奮い立たせ、歴史に名高い三原脩選手のホーム・スチールを呼ぶなどして、早稲田を勝利に導びきました。
その後、「紺碧の空」は早稲田大学の第一応援歌となりその地位を不動のものとしたのでした。
立教大学
大正11年(1922年)に創立された立教大学は米国の宣教師チャニング・ウィリアムズが設立した聖書教育と洋学教育であった立教学校が母体です。今でいえば“ミッションスクール“で、設立当初の名称はSt.Paul’s School。「St.Paul’s」は、立教大学の守護聖人が聖パウロであることに由来しています。
立教大学体育会応援団
キリスト教主義学校である立教大学の名と共に十字架というシンボルを重んじていることが特徴です。またその応援歌も他の6大学と雰囲気が異なり、独自の魅力が大いに発揮されているのではないでしょうか。
第一応援歌「行け立教健児」
昭和21年(1946年)、戦争で中断していた東京六大学野球連盟が復活しました。「新しい時代には、新しい応援歌を」と当時の応援団団長・小藤武門が古今聖歌集の聖歌300番を基に作詞をした応援歌です。
まとめ
満員の神宮。歴史あるスタジアムが生まれ変わる。
六大学野球の聖地神宮球場が『ボールパーク』として生まれ変わる。2020年東京五輪・パラリンピックを契機とし、明治神宮外苑地区の再開発が実施される予定です。
新神宮球場は27年中の完成を目指し、球場にはホテルを併設するプランも浮上しており、東京の真ん中で“夢のボールパーク化”が動き始めています。
私を含め、なつかしい“神宮球場”はあと数年でなくなることになりそうです。自分の青春の一部、残りわずかな期間でしたら、少しでも見つめておきたいですね。
東京六大学応援歌メドレー
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