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天皇賞(春)の歴史を調べてみた

天皇賞の歴史

※ゴール前の直線(第135回天皇賞・春)Ogiyoshisan

天皇賞(春)(4歳以上オープン 国際・指定 定量 3200m芝・右)は、日本中央競馬会(JRA)が阪神競馬場で毎年4月末から5月頭に施行する重賞競走(GⅠ)である。日本の競馬の中で最も古くからあり格式の高いレースだ。

この天皇賞(春)について創設からの歴史をひもといてみる。

なお2001年(平成13年)から競走馬の年齢表記が数え年から満年齢に変更された。この記事では現在の表記で記す。

天皇賞の歴史

天皇賞の歴史は、日本の西洋式競馬の歴史と重なる。

日本で初めて誕生した西洋式競馬場は根岸競馬場(横浜競馬場)で、第1回の開催は1867年(慶応2年)に行なわれた。

明治維新後、明治天皇が積極的に競馬の開催を後押しし、1880年(明治13年)に日本レース倶楽部の主催によって行なわれたレース「The Mikado’s Vase」の勝者に賞品(金銀銅象嵌銅製花瓶一対)を下賜した。これが現在の天皇賞の原型になる。

天皇賞の歴史

天皇賞の前身とされる「エンペラーズカップ」が行われていた旧横浜競馬場 (現:根岸森林公園、根岸競馬記念公苑)wiki(c)Wiiii

1905年(明治38年)に根岸競馬場(横浜競馬場)で「The Emperor’s Cup」が開催され、その後横浜・東京・阪神・小倉・福島・札幌・函館の各競馬倶楽部が独自の競走条件で「帝室御賞典競走」を行なった。

1936年(昭和11年)帝国競馬協会と11の競馬倶楽部が合併して日本競馬会が発足、「帝室御賞典競走」も統一されて春は旧阪神競馬場(鳴尾競馬場)、秋は東京競馬場で行なわれることになった。

帝室御賞典

※帝室御賞典発走前に行われる騎手の選手宣誓

JRA(日本中央競馬会)では1937年(昭和12年)12月に東京競馬場で行なわれた帝室御賞典を第1回天皇賞としている。

第2回天皇賞は1938年(昭和13年)5月に、旧阪神競馬場(鳴尾競馬場)の芝2700mで行なわれた。優勝馬はハセパーク(牡4歳)である。

第1回天皇賞では全8頭中8着に敗れていた。

天皇賞(春)の歴史

1939年(昭和14年)距離3200m、出走資格が4歳以上牡馬・牝馬に変更された。

1944年(昭和19年)京都競馬場で「能力検定競走」が行なわれ、これ以、降京都競馬場で施行されることになった。
太平洋戦争による中断後、1947年(昭和22年)に「平和賞」の名称で再開、翌年「天皇賞」に改称、現在に至る。

天皇賞は創設から長い間、「勝ち抜き制」であった。一度優勝するともう天皇賞には出られなかった。天皇賞の優勝盾「御紋付楯」を賜わった上は、敗北をして賞の権威を汚してはならないといわれた。1981年(昭和56年)にこの「勝ち抜き制」が廃止された。

1984年(昭和59年)グレード制の導入によりGⅠに格付けされた。

2005年(平成17年)国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった。また2008年(平成20年)には出走資格が「4歳以上」に変更され、(セン)馬(去勢された牡馬)の出走が可能になった。天皇賞が「優秀な内国産の繁殖馬を選別」する目的を有していたから、これらの馬は出走できなかったのだ。

鳴尾競馬場

太平洋戦争中の1944年(昭和19年)第14回天皇賞(春)は「能力検定競走」として京都競馬場の芝3200mで行なわれた。旧阪神競馬場(鳴尾競馬場)が1943年(昭和18年)の春の開催の後、軍に接収されて戦闘機のテスト飛行場になってしまったためである。

天皇賞の歴史

武庫川女子大学附属中学校・高等学校芸術館(旧鳴尾競馬場本館)wiki(c)Hirojin taja

ちなみに鳴尾競馬場は1912年(明治45年)5月に日本で初めてオートバイによるオートレース「第1回自動自転車競走会」が行なわれた地でもある。

女傑 レダ

戦後の中断を経て1947年(昭和22年)第15回は「平和賞」の名で行なわれた。

1948年(昭和23年)第17回から天皇賞(春)が再開し、2019年(平成31年)まで159回を数える。

この長い歴史の中で、天皇賞(春)で勝った牝馬は1953年(昭和28年)第27回のレダ(4歳)ただ1頭だけだ。春は牝馬のフケ(発情)の時期なので調整が難しいためだ。

彼女の同期の牝馬はクインナルビー、スウヰイスー(牝馬二冠)、タカハタ(皐月賞・日本ダービー2着)など強者揃いだった。天皇賞(春)では1番人気に推され、見事2番人気のクインナルビーを2着に沈めて勝利した。クインナルビーはその年の天皇賞(秋)で優勝している。

兄弟制覇 モンテプリンス・モンテファスト

兄弟で天皇賞(春)を制覇したのは1982年(昭和57年)第85回のモンテプリンス(牡5歳)・1984年(昭和59年)第89回のモンテファスト(牡6歳)だけである。

全兄(父母ともに同じ兄)のモンテプリンスは素質が高かったものの脚部不安があって重馬場に弱く「太陽の王子」、上位にくるのになかなか勝てず「無冠のプリンス」といわれた。天皇賞(春)、宝塚記念と連勝したが故障を発生して5歳限りで引退してしまった。

1歳年下の全弟のモンテファストにも脚部不安があり、5歳秋まで凡庸な成績だったため「賢兄愚弟」と揶揄された。

父子三代天皇賞制覇 メジロマックイーン

天皇賞の歴史

※種牡馬時代のメジロマックイーン

1981年(昭和56年)に「勝ち抜き制」が廃止された。

天皇賞(春)の連覇第1号は1991年(平成3年)第103回・1992年(平成4年)第105回のメジロマックイーン(牡5歳)である。

1970年(昭和45年)第62回天皇賞(秋)の優勝馬メジロアサマを祖父に、1982年(昭和57年)第86回天皇賞(秋)の優勝馬メジロティターンを父に持ち、日本競馬史上唯一の「父子三代天皇賞制覇」を達成した。

メジロ牧場の創設者の北野豊吉氏は天皇賞を勝つことを最大目標とし、長距離馬を中心に生産してきた。2011年(平成23年)に解散するまで、天皇賞(春)(秋)で合計6頭が盾の栄誉に輝いた。

 

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