※外人部隊の兵士
その部隊はフランス軍において外国籍の兵士だけで構成されている。
傭兵部隊ではなく、れっきとしたフランスの正規軍である。しかも、近世においてここまで時代に翻弄されながらも戦い抜いた部隊はない。
戦後の動乱を巡って転戦し、現在もフランス軍の最精鋭と言われるフランス外人部隊について調べてみた。
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成り立ち
1831年、ナポレオン戦争やアルジェリア征服戦争により多くのフランス国民軍が死傷者が出ていたため、国民の非難を避けるために設立されたのが
「 Legion etrangere,(レジョン・エトランジェール)」すなわち「外人部隊」だった。
正規軍でありながら外国人兵士により編成され、フランス人士官が指揮を執るこの部隊は、ルイ・フィリップ国王の署名によって誕生した。
当初はその目的のために北アフリカ、特にアルジェリアを本部として活動していたが、次第に世界各地の様々な任務に投入されることになる。
その後はフランス政府による他国への武力介入や、植民地での紛争に駆り出されるようになった。
第一次世界大戦では100以上の国の国民が志願したという。その背景には、当時は身元の照会がおざなりで他国の犯罪者ですら偽名での入隊を認めていたためである。これは公然の秘密として政府も認めていた。人員確保のためだ。
第二次世界大戦ではフランスが早々にドイツに降伏したため、ドイツ軍指揮下で戦い抜いた。また、アジアにおいても植民地のインドシナを巡る問題が勃発、1946年には早くもインドシナ戦争が勃発した。
すでに本国では厭世気分が強く、徴収兵だけでは対応できなかったために政府は外人部隊をインドシナに投入した。
これが後々、外人部隊の運命を決める大きな岐路となったのである。
ディエンビエンフー
インドシナは現在のベトナムである。長らくフランスの植民地であったが戦後にベトナム民主共和国が成立。その後は中国共産党の支援を受けた共産ゲリラ(ベトミン)がフランスからの完全独立を求めゲリラ戦を仕掛けるようになる。
やがてその規模は拡大し、外人部隊を中心とするフランス軍は、ベトナム北西部に位置するディエンビエンフーに大規模拠点を設ける計画を立てるた。「アンヌ=マリ」や「ベアトリス」といった女性名が付けられた七つの陣地が構築され、滑走路も整備された。しかし、ディエンビエンフーは盆地だったため、フランスの予想を上回る勢いで包囲されてしまったのだ。
その頃の外人部隊を構成していたのは元ナチスドイツ軍人が多く、中には戦犯として追われたために部隊に身を隠したものもいた。また、大戦中に同地に進駐していた日本人も現地採用されるなど、実戦経験では外人部隊が有利だった。
しかし、ベトミン軍は中国やソ連から大量の武器や物資を援助されており、人数でも約7万人が動員されていた。フランス軍は2万にも満たないが、陣地を構築していたことで戦いは激化、凄惨なものになる。
敵味方の死体がいたるところで埋葬もせず放置され、残りの兵士は異臭も気にせず食事することが出来るほどに慣れてしまったのだという。
増援の外人部隊兵が夜間にパラシュート降下で陣地に駆けつけるといった士気の高さはあったが、最後には数に負ける形でフランス軍の要塞は陥落した。
1954年3月から4月のこの激戦でフランス軍は約2,200名が戦死し、10,000人以上が捕虜となった。その後のジュネーブ協定の締結によりフランスはインドシナから全面撤退、捕虜の多くも解放された。
こうしてフランス外人部隊は次の戦地へと移ることとなる。
※降下するフランス兵 ディエンビエンフーの戦い
アルジェリア
1954年11月、フランス領アルジェリアで独立紛争が勃発した。
アルジェリアではかねてよりヨーロッパからの入植者(コロン)と現地人との間に軋轢があったのは事実である。
雇用主と使用人という立場のまま世代を重ねた現地人たちはフランスからの独立を望んでいた。一説には、コロンは現地人が見向きもしないような土地にオリーブ畑を作り、インフラを整備、雇用を生み出すなど現地人にとっても恩恵を受けることが多かったという。しかし、アルジェリア民族解放戦線が組織されるとゲリラ戦が一気に激化する。
アルジェリアに本部を持つ外人部隊もすぐさまそれに対抗した。市街地戦やゲリラの構成員と思われる家への捜索などが徹底される。インドシナでの地獄を経験したした隊員の実力はこの地でも発揮されたのだ。
アルジェリアではフランス軍が優位を保ち、1958年にはアルジェリア解放戦線を壊滅寸前まで追い込むことになっていた。
だが、またしても運命は外人部隊にとって苦難の道を示した。
※アルジェリア戦争
シャルル・ド・ゴール
フランス国内ではアルジェリアの独立について世論が二分していた。
先進国としてアルジェリアの独立を認めるべき意見と、国家の威信にかけて認めるべきではないというものである。
一方でアルジェリアでは駐留する外人部隊を始めとする現地軍や入植者たちは「フランスのアルジェリア」を合言葉に平定を、対する現地人は「アルジェリアのアルジェリア」を唱えて独立を目指していた。
つまり、外人部隊対本国の構図が出来上がったのである。
この混乱により1958年、フランス政府はその機能を麻痺させてしまう。
そこで現地軍や入植者たちは精鋭である第1・第2外人落下傘連隊を擁する第10落下傘師団長マシュ将軍(ジャック・エミール・マシュ)を中心に動きを見せた。フランス政府が新首相として擁立したシャルル・ド・ゴールと接触し、アルジェリア独立を認めないことを条件に大統領の地位に就けるように協力したのだ。
アルジェリア駐留軍も入植者たちも「フランスのアルジェリア」がこれからも続くと信じて。
※フランス共和国第18代大統領 シャルル・ド・ゴール
しかし、1960年、一転してド・ゴールは「アルジェリアのアルジェリア」を承認し、現地軍は裏切られた。
アルジェリアだけではなく、世界の植民地の独立を次々と承認し、マシュ将軍を師団長から更迭する。現地軍でもマシュ将軍より地位の高い将軍がいたのだが、彼は有能すぎたのだ。それを恐れたド・ゴールは強行策に出たのである。
無論、アルジェリアの外人部隊もこの裏切りに黙ってはいなかった。将校や士官のなかにはクーデターを計画するグループまで現われる。計画によると第1・第2落下傘連隊がパリに空挺降下、他の部隊もそれに加わり首都を制圧するものだったという。
結果、最悪の事態は避けられたが、こうした反抗により現地軍の多くが逮捕され、外人部隊も第1落下傘連隊は解体された。
フランス国民の大きな支持もあり、アルジェリアは独立したのである。
秘密軍事組織
アルジェリアでの反乱後、ド・ゴールの裏切りを忘れない多くの元軍人たちが秘密軍事組織(OAS)を結成、アルジェリアやフランスなどで要人の殺害などを活発化させた。そこにも元外人部隊兵が加わっていたらしい。
元々、アルジェリアと関わりの深い外人部隊はアルジェリアの独立を許すことが出来なかった。心情的なものだけではない。インドシナの時もアルジェリアの時も敵の背後には共産主義国家が付いていたのだ。独立を許せば共産国家になってしまうのは明白であった。
後年、独立後の現地人たちは当時を振り返り、植民地時代は良かったと言う。教育、医療、仕事、食料、治安などあらゆる面で植民地時代は安心できたのだと。植民地の是非はさて置き、同様の意見は独立した各国の植民地でも聞かれる話である。
そして、1961年9月にはド・ゴール暗殺未遂事件が起こる。計画は失敗したが、このエピソードを元にした映画が「ジャッカルの日(1973年)」である。名もなきイギリス人暗殺者がド・ゴールを狙って緻密な準備をする様はリアリティに溢れる名作である。
まとめ
フランス外人部隊ほど時代に翻弄された部隊も珍しい。
今回は第二次世界大戦後のエピソードがメインだが、それ以前から外人部隊はフランス軍の先鋒となって戦ってきた。そのため、一般のフランス兵と交流があると外人部隊兵はビールを奢られるという。それほど信頼されているのだろう。そして、現在でも数十人の日本人が在籍している。
これからもフランス外人部隊はその伝統を守り、戦場の先陣を駆けるのだろう。
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