共和制の国があまりなかった昔は、国の強さは皇帝や国王の政治スキルにかかっていると言ってもいいほど君主の力が強いものであった。
君主が無能だったらその国も弱体化し、逆に君主が有能だったらその国はものすごい強国に変わっていく。
今回紹介するピョートル大帝は特に有能な人物だった。もしこの人物がいなかったらもしかしたら今のロシアの発展はなかったであろう。
今回はそんなロシアの皇帝 ピョートル1世に関するお話。
ピョートル1世が即位する直前のロシア
ピョートル大帝の説明をする前にまずはロシアの現状を見てみよう。
まずロシアという国は17世紀ごろは西欧諸国とは比べ物にならないほど遅れていた。元々ロシアの大半が不毛な土地だったことが遅れていた原因の一つだったのだが、それ以上にロシアは長い間モンゴルに支配されていた。いわゆるタタールのくびきというものである。そのため長い間ロシアは発展することはあまりなかった。
しかも雷帝と呼ばれ恐れられていたツァーリであるイヴァン4世の死後ロシアではロマノフ朝という新たな王朝が誕生したのだが、これも政争が続きロシア国内は疲弊していた。
そして1682年にピョートル1世が第5代目ツァーリとして即位。この時ピョートル1世は僅か10歳であった。
しかし、ピョートル1世はこの時まだ政治の実権を持つことはなかった。なぜなら上にはソフィアという強力な姉がいたからである。
しかしソフィアは戦争に負け続け、さらには清との条約打診も蹴り飛ばしたせいで貴族の反感を買いまくり、遂には王朝を追われることになったのである。
ピョートル1世 西欧諸国留学
この後、ピョートル1世は晴れて政治の実権を握ることになったのだが、この時ピョートル1世は政治をすることはあまりなかった。
なぜなら、政務なんかをしている時間がなかったのである。
上にも書いた通りロシアという国はかなり遅れていた。ピョートル1世はそれを危惧していたのだが、それをなんとかする方法がなかなかアグレッシブなもので、なんとピョートル1世は25歳の時に西欧諸国に留学しに行ったのである。
日本でも明治時代の時に岩倉使節団という形で条約改正交渉のついでにヨーロッパ諸国を見学したのだが、ピョートル1世の場合は君主自ら西欧諸国に留学しに行ったのである。しか
もわざわざ君主という身分を隠して。
特にこの時特に発展していた国であるオランダの首都アムステルダムでは自ら船大工として働き、造船技術を学び、そこから軍事、文化、西洋の哲学、さらには西洋医学に至る分野を吸収していった。
特に西洋の歯科技術にハマったようで、ピョートル1世は家臣が歯を痛めたら自ら歯科治療をしていたのだから驚きである。
大北方戦争
ピョートル1世が帰国した後、ロシアは様々な改革を行い急速な近代化を進めていった。
そんなロシアの近代化を決定付けたのが大北方戦争という戦争での勝利であった。
この頃北欧とヨーロッパ大陸の間にあるバルト海という海は、スウェーデン・バルト帝国という国が牛耳っていた。
ロシアはこの当時露土戦争という戦いでオスマン帝国と戦っていたが、バルト海がスウェーデンに制圧させられることを危惧したピョートル1世は、ポーランドとデンマークと手を組み北方同盟を結成し、スウェーデンに宣戦布告した。
こうして大北方戦争は幕を開けたが、最初の頃はスウェーデン国王であり『北方の流星王』と恐れられたカール12世率いる少数精鋭部隊によって敗北し、一時期は劣勢に追い込まれたが、ポルタヴァの戦いで圧勝し、さらにはハンゲの海戦ではピョートル1世自身が必死に育ててきたロシア海軍が、見事に効果を発揮して勝利を収めた。
こうしてバルト海を失ったスウェーデンはロシアと講和。こうして大北方戦争はロシアの勝利で終わったのである。
新都サンクトペテルブルクの新設
ピョートル1世が行った内政改革は多岐にわたってあるが、その中の一つがサンクトペテルブルクの新設である。
これまでの都は今のロシア連邦と同じであるモスクワであったが、モスクワは少し内陸にあり貿易をするときは少々不便な土地であった。そこでピョートル1世は大北方戦争で奪ったバルト海に近く貿易がしやすいところに新たな都を作り始めたのである。
ピョートル1世は大量の人員と物資を使い都市を整備すると、名前をロシア語で『聖ペトロの町』という意味であるサンクトペテルブルクという名にした。そして1712年にはピョートル1世は大量の貴族や大商人、聖職者と共にモスクワからこの地に遷都。遷都してから2年後には人口が5万人を越すなどの発展を遂げた。
さらにピョートル1世は1721年にインペラートル(皇帝)を宣言し、ロシア帝国が成立。
こうしてロシア帝国は誕生したのである。
ピョートル1世らしい最期とロシア帝国のその後
ピョートル1世の治世の時にロシア帝国は大きく発展し、西洋諸国と並ぶぐらいまでに押し上がった。
そんなピョートル1世の最期にはこんな逸話がある。
とある日、ピョートル1世は川で船乗りが溺れているという話を聞いた。それを聞いたピョートル1世はその船乗りを助けるためにわざわざ川に飛び込んで船乗りを救助したというのだ。
その結果、川にいる菌に感染してしまいそのまま52歳で亡くなったのである。
これはあくまでも逸話だか、まさしく人道的であったピョートル1世の性格らしい最期である。
その後ロシアは後継者争いに突入していくのだが、次のエカチェリーナ1世はロシア帝国をまとめるだけの実力はなかった。
再びロシア帝国が発展するのはエカチェリーナ2世の治世の時まで待たなくてはならない。
ロシアにもそんないい人がいたとは‥。今は恐怖政治の面影しかないが。