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ロシア帝国の歴史とロマノフ朝について調べてみた

近くて遠い国。そして、日本の歴史とも深いかかわりを持つ国がロシアだ。

2017年はロシア帝国の崩壊から100年を迎える。

ロシア連邦でもなく、ソビエト連邦でもない、「ロシア帝国」の歴史を探ろう。

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モスクワ・ツァーリ国から ロシア帝国へ

1721年、ピョートル1世が皇帝に即位したことにより、モスクワ・ツァーリ国はロシア帝国としてヨーロッパの大国への道を歩み始めた。

ロシア帝国
※「全ロシアの皇帝」の称号を贈られるピョートル1世

帝政となるまでのロシアというのは、ロシアでローマ帝国の後継者を意味する「ツァーリ」が君主となって各地方を治める小国の集まりに過ぎなかった。そのため、西欧列強に比べると政治的にも軍事的にも遅れをとっていた。

ツァーリの語源は「カエサル」なのだが、これは東ローマ帝国の影響を受けている。

ピョートル1世は、ロシアを大国にするためにはバルト海や黒海へ侵攻することが不可欠だと考え、ヨーロッパを歴訪しては先進的な技術などを視察している。なぜなら、当時のロシア領の港は、冬になると数ヶ月は氷に閉ざされてしまい交易もままならない。そこでまずはバルト地方に侵攻してにスウェーデンと戦い「大北方戦争」で勝利して、冬でも凍りつかない港を手に入れた。

その戦功により元老院および、ロシア正教会の最高機関である聖務会院から、皇帝(インペラートル)の称号を贈られたことにより、国号も正式に「ロシア帝国」となったが、同時にピョートル1世はロシアの名門貴族であるロマノフ家の出身であったため、ロシア帝国=ロマノフ王朝という国家形態が完成したのである。

女帝の時代

ロシアの首都というとモスクワが思い浮かぶが、帝政ロシアとなってからは、ピョートル1世が大北方戦争で獲得したバルト地方の「サンクトペテルブルク」とされ、積極的に西洋改革を進めることとなった。

しかし、即位からわずか3年後の1725年1月にピョートル1世が死去してしまう。その後は女帝や幼帝ばかりが入れ替わり、そのどれもが在位期間が短かったために政治的に不安定な時期を迎えることとなった。その間に首都はサンクトペテルブルクからモスクワに戻されている。

1762年、夫のピョートル3世に代って「エカチェリーナ2世」が皇帝に即位するとロシアに勢いが戻りだす。

皮肉にもエカチェリーナ2世はドイツ系の出身でロシア人の血は引いていなかったが、その在位中には外交や戦争によってロシア帝国はその領土を急速に拡大していった。また、独立戦争を戦っていたアメリカに対しての輸出を推進したり、極東に目をつけてからは江戸幕府に対して通商を求める使節団を派遣するなど、皇帝としての手腕を存分に発揮している。


【※エカチェリーナ2世】

一方で、エカチェリーナ2世は農奴制を強化しており、これが国民の不満へと発展していったことも否めない。

エカチェリーナ2世の治世は貴族偏重の政治が進められていたため、反乱なども起きたが彼女の功績によりロシアはヨーロッパの列強に肩を並べるまでになっていた。

ヨーロッパの大国から革命へ

エカチェリーナ2世の次に注目したいのは、彼女の孫「アレクサンドル1世」である。1801年に即位したアレクサンドル1世の時代はまさに激動の時代であった。

イギリス、オーストリアといった列強と第三次対仏大同盟を結ぶことで、フランスのナポレオンと対決することになったが、1805年のアウステルリッツの戦いに始まる一連の戦いによってナポレオンに振り回されることになる。しかし、ナポレオンのロシア遠征が失敗し、敗走するフランス軍をパリにまで追撃したことで「ヨーロッパの救済者」と呼ばれるようになった。

一時は、アラスカまで植民地として支配し、アメリカに売却するほどの大国となったが、やがてロシア帝国の権勢に陰りが見え始める。

国際的にはヨーロッパをリードする国のひとつという地位にまでなりはしたが、農奴制による経済発展の遅れに加えて、産業革命によって西欧との経済格差は広がってしまい、19世紀後半には革命運動が活発となっていった。長年にわたる農奴制や革命運動に対しての厳しい弾圧により、国民の感情は国家から離れていたのだ。

さらに第一次世界大戦という総力戦が国民の負担をさらに増し、ついには労働者を中心とする国民の不満が爆発した。

1917年2月23日、再びロシアの首都となっていたサンクトペテルブルクで「二月革命」が起こり、軍部も労働者たちを支持したことでロシア帝国最後の皇帝であるニコライ2世は退位、ここにロシア帝国は終焉を迎えたのである。


【※ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世】

日本との関わり

1904年に勃発した「日露戦争」に日本が勝利したことにより、両国の関係は良好といえない状態になるが、それ以前の江戸時代末期には小さな友情とも呼べるエピソードが残されていた。

1854年、日露の国境などを決める「日露和親条約」締結のために、エフィム・プチャーチン提督が軍艦「ディアナ」で下田に来航した。しかし、下田沖に停泊中の同年12月13日、安政東海地震とそれに続く津波によって「ディアナ」は大破してしまう。

プチャーチンは、帰国のため日本との共同作業で艦を作ることなり、西伊豆にある戸田(へだ)村で日本初の洋式帆船が完成したのである。

船名は「ヘダ」と決まり、進水式には日露の作業者たちが喜び合ったという。

【※上は、進水式の様子。船体はかなりデフォルメされているが、日露の人々が喜ぶ様子が分かる。下が航海中のヘダ号」

ロマノフ朝

ロシアの名門貴族「ロマノフ家」は、1613年にミハエル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位したことによって「ロマノフ朝」となった。1721年にはピョートル1世が皇帝に即位し、ロシア帝国の王朝となる。

ロシア帝国建国後も、ロシア・ツァーリ国は帝国の一部として残されたため、両国の王朝を兼ねることとなった。しかし、ピョートル1世の没後、ほどなくしてロマノフ家の直系の嫡男は途絶えてしまう。その後の家督争いによって、ドイツ系の「ホルシュタイン=ゴットルプ家」から皇帝「ピョートル3世」を迎え入れたことにより、ロマノフ家は正式名称が「ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝」となった。

だが、一般的には「ロマノフ家」「ロマノフ朝」で通じるし、ピョートル1世から末代のニコライ2世まで続く家系として認識されている。

ちなみに、現在でもロマノフ家の血筋は途絶えていない

最後に

大国ということだけあり、今回は大まかな歴史の流れを調べただけだが、日本ではほとんど知られていない歴史も多い。

世界初の社会主義国が生まれた理由も、当然ながらロシア帝国が農奴や労働者を酷使したためだ。いずれ、焦点を絞って「ソビエト連邦」や「ロシア連邦」まで調べられたら良いとは思っている。

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