30年以上の独裁
フランシスコ・フランコは、スペインの軍人にして独裁者として30年以上の長きに渡って君臨した人物です。
その独裁の期間だけから見ると、アドルフ・ヒトラーやベニート・ムッソリーニよりも政権を維持し続けた独裁者と言えます。
フランコの後に民主主義への転換が図られたスペインにおいては、フランコの統治に対する批判が盛んに行われ、現在ではその存在を忌避されている人物と言えます。
モロッコで活躍
フランコは1892年にスペインのガリシア地方のフェロルという町で、海軍で准将をつとめた祖父と父を持つ職業軍人一家の次男として生まれました。
フランコ自身は陸軍士官学校へと進み、18歳で少尉に任官して職業軍人への道を歩みました。
1912年から5年間、フランコは当時スペインの植民地であったモロッコへ赴任し、植民地原住民の反乱鎮圧に従事しました。
この時の功績から少佐に昇進し、本国へ戻ると陸軍士官学校の校長に就きました。
第二共和政下のフランコ
1931年にスペインでは王族が追放される第二共和政が始まり、この下でフランコは少将へと昇進を果たしました。
続く1934年に右派の内閣が成立すると、これに反抗する左派勢力がストライキを煽動した為、フランコはこのストライキに加わったアストゥリアス地域の労働者の鎮圧を行い、その功により翌1935年に陸軍の参謀総長の地位を得ました。
しかし翌1936年に左派が政権を握り人民戦線内閣が成立したため、筋金入りの右派であったフランコは陸軍の中枢から排除され、参謀総長の座を追われることになりました。
スペイン内戦の勃発
1936年7月、フランコはモロッコで反乱を起こした軍に合流し、これを指揮してスペイン本国へと侵攻しました。
こうしてスペイン内戦と呼ばれる激しい内戦が勃発しました。ただし当初フランコは一介の陸軍の司令官に過ぎない存在でした。
しかし実戦経験が豊富であったフランコは、有力な指導者であったモラ将軍が事故死したことで、その後釜として反乱軍の中心を担う人物となりました。
フランコ総統の誕生
フランコは1936年10月には反乱軍総司令官の地位に付き、未だ内乱が続くスペインにおいてその賛同者たちの後押しを受けて国家元首に就任しました。
この時フランコは軍の総司令官も大元帥となって兼任すると自らを「総統」と称しました。
フランコはその後ヒトラーのドイツや、ムッソリーニのイタリアの援助を受け、共和国側との内戦を続けました。
フランコは1939年3月末にスペイン全土の鎮圧を終え、ここに多数の犠牲者を出した内戦は一応の決着を見ました。
第二次世界大戦中のフランコ
1939年3月にフランコは枢軸国の同盟であった日独伊三国防共協定へ加入を決め、同年5月には国際連盟からも脱退を行いました。
ドイツがポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦が勃発すると、一応フランコは中立を打ち出しましたが、ドイツが優勢に戦いを進めるのを確認すると、立場を改めてドイツ・イタリアへの協力を行いました。
狡猾なフランコはドイツ優位だった戦局が英国本土上空戦やギリシャなどで逆転、連合軍が優勢となると枢軸国としての参戦を見合わせました。
しかしドイツがソ連侵攻を開始すると、反共の姿勢から義勇兵約1万人を援軍として差し向けました。
フランコは1943年頃に連合軍の優位が確定すると再び中立を装って、第二次世界大戦をやり過ごしえました。
フランコの最期
第二次世界大戦後に創設された国際連合は、軍事独裁政権であるスペイン・フランコを排除する決議を採択しました。
しかし戦後の米ソによる冷戦構造が、反共という共通項で西側諸国とスペインとを再び協調関係へと導きました。
フランコは1969年に王族のフアン・カルロスを後継者に指名すると、以後は公的な場に姿を現すことはありませんでしたが、1975年に83歳で没するまで終生総統の地位に君臨し続けました。
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