毛沢東の結婚歴
毛沢東は四度結婚している。最初の妻は若くして赤痢で亡くなった。
二番目の妻は恩師の娘、楊開慧(よう かいけい)」である。中国の知識階級で著名だった人物の娘との結婚であり、無名の少年が社会主義運動で頭角を表すのに「楊昌済の娘の夫」という肩書きとポジションは、大きな後ろ盾の一つになった。
妻も毛の同志となり共に戦っていた。2人の間には3人の男児が生まれた。
その後、毛沢東は井崗山に立てこもっている時、賀子珍(が しちん)という女性と暮らすようになった。
最初の妻も共産党の活動家であり地下活動を続けていたが、1930年10月に国民党軍に捕らえられ「毛沢東との離婚と非難声明を出せば助けてやる」という取引を持ちかけられたが拒絶し銃殺された。30歳だった。
後に愛人であった賀と結婚した。
しかしその後、女優の江青(こうせい)と知り合いまたの不倫。妻を捨てて結婚する。
江青は後に20世紀最大の悪妻とされる人物である。
ちなみに毛沢東は4度の結婚で合計10人の子供がいた。6男4女である。
紅色女皇
最後の妻、江青は非常に悪名高い人物である。
彼女が25歳、毛沢東45歳の時に二人は出会い、不倫関係から交際が始まる。
だが不倫であり、さらにスキャンダルで広く知られていた江青を妻とする事に幹部たちは猛反対した。結局、毛沢東は結婚の条件として「江青を政治の表舞台に立たせない」という約束をさせられた。そして二人は結婚することになる。
その後、第二次世界大戦を経て国共内戦の結果、1949年に毛沢東が共産党主席になると江青は中華人民共和国のファーストレディとなった。
その後体調を崩しソビエト連邦で療養するが、1960年代前半帰国した。その後、積極的に政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。
そして1966年に始まる文化大革命以降に「四人組」(江青、王洪文・張春橋・姚文元)の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。表面上は夫・毛沢東の忠実な部下を装っていたが、非常に嫉妬深く自分より優れた女性は容赦無く攻撃し、投獄したり、死に至らしめた。
過去に確執があった映画関係者まで槍玉に上がり、多くが迫害死に追い込まれた。
他に、中華人民共和国第2代最高指導者である鄧小平(とうしょうへい)を第一次天安門事件の責任を追わせて失脚させるなど、毛沢東の死後もしばらくは政治に大きな影響力を持っていた。
しかし、1980年より文化大革命の首謀者たちが裁判にかけられ、江青は1981年に死刑判決を受けた。
1983年に無期懲役へ減刑されたが、最終的には1991年5月14日、病気療養仮釈放中に北京の住宅地で首吊り自殺をした。後に、共同墓地に埋葬されたがその墓には彼女の名前は記されていない。
彼女の死後も娘は「悪女の子」として迫害を受けたという。
彼女は多指症で右の足指が6本あり、理由はわからないが晩年はハゲ頭だったと伝えられている。
毛沢東の息子の死因
中国共産党は自らの黒歴史を揉み消すのに必死なのだが、そのーつに毛沢東の長男、毛岸英(もうがんえい)の死因がある。
毛岸英は将来有望視されていた人物だった。若い頃、ソ連で入党しポーランドでの独ソ戦にも参加した血気盛んな若者は、父の許可を得て朝鮮戦争に出兵し、ロシア語通訳者として戦地に赴くことになった。
だが、彼の横柄な態度は度々参謀たちを苛立たせることになる。そんなある日、北朝鮮から慰問品として戦場では極めて貴重な卵が届いた。その日寝坊して腹が減っていた毛岸英は、火気厳禁の規則を無視して仲間に卵チャーハンを作るよう命じた。
建物から白い煙が上がっていることに気がついた参謀は「敵襲の危険があるからすぐに火を消せ」と命じた。しかし彼はそれを無視し「チャーハンが出来次第火を消すから心配するな、あっちに行け」と行った。
その直後に米軍のB26戦闘機がナパーム弾を司令部に落とし、逃げ遅れた毛岸英たちは爆死したという。これを記念(?)して、11月25日は「卵チャーハンの日」として中国を批判する人たちから皮肉られているという。
興味深い逸話が絶えない毛沢東、そして彼を取り巻く人たち。
知られているエピソードだけでもこれだけあるのだから、幾つもの事実が闇に葬られてきたのであろう。
毛沢東はどんな人物だったのか?① 「中国共産党中央委員会主席となるまで」
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