ベルリンの壁とは?
ベルリンの壁とは東西に分裂していたドイツで1961年に建設された西ベルリンを囲んだ壁のことである。
ここでよくある間違いなのだがベルリンの壁は東西ドイツを分断した壁ではない。
あくまでも東ドイツ国民が西ベルリン経由で西側諸国に亡命しないようにするために建設された壁だから、注意が必要だ。
このベルリンの壁は、当時社会主義陣営と資本主義陣営が激しく対立していた東西冷戦の象徴でもあり、ドイツ分断の象徴でもあった。
ベルリンの壁崩壊の序章 ペレストロイカの開始
※ミハイル・ゴルバチョフ書記長時代は一気に進み1985年。社会主義陣営の親玉でもあったソ連ではミハイル・ゴルバチョフが書記長に就任してトップの座に就いた。
ゴルバチョフはソ連がアフガニスタン侵攻が原因で起こった経済悪化の立て直しと、新しい政府を作り直すためにペレストロイカを行い始めた。
ゴルバチョフは、同じ陣営に所属していた東ドイツにもこのペレストロイカを行うように命令するが、当時東ドイツの最高指導者であったホーネッカーはこれに断固拒否。
強硬な社会主義国を維持しようとしていた。
東欧革命
そしてペレストロイカが始まってから4年後の1989年、東欧の社会主義国は大きく揺らぐことになる。
その第一歩がポーランドにおける連帯政権の誕生であろう。社会主義国であったポーランドにおいて非共産党の政権ができたことは社会主義陣営にとって大きな影響を及ぼすことになる。
3月3日ハンガリーにおいて西側諸国との国境線に設置されていた有刺鉄線が撤去された。これを受けて東ドイツ国民はハンガリーを経由すれば西側諸国に行けるとハンガリーに移動。いわゆる汎ヨーロッパ・ピクニックが起こり東ドイツ国民の民主化の動きは一気に活発化することになる。
11月5日には東ドイツ最大規模のデモが巻き起こり、ホーネッカーは失脚。チリに亡命する羽目になった。そして、そのデモの矛先はドイツを分断していたベルリンの壁にも向けられ、東ドイツ国民は国境の自由通過を望むようになっていった。
そしてその動きは歴史を変えることになる。
ある男の勘違いによる完全崩壊
東ドイツ国民の運動に耐えられなくなった東ドイツ政府は、11月9日に東ドイツから西ドイツへと簡単に旅行することができる法律を可決する。
しかし、東ドイツ政府も馬鹿ではない。これはあくまでも東ドイツ国内で起こっていた不満のはけ口であり、こうすることによって東ドイツの運動家を西ドイツに追い出して、運動を沈静化しようとしていたのである。
しかし、いざその法律を発表するときに事件が起こる。この時東ドイツ政府は本来なら国境整備が整う午前4時に発表する予定であった。しかし、当時の政府報道官であったシャボフスキーはこのことを知らず、なんと法律が可決した直後に国民に発表するものだと勘違いしてしまい、そのまま記者会見が始まった。
シャボウスキーは東ドイツ国民が簡単に西側諸国に行ける法律が可決されたことを淡々を説明し、さらに一人の記者が「その法律はいつ発効されるのですか?」と質問したところ「直ちに」と答えた。そしてこの放送を見た東ドイツ国民はわれさきにとベルリンの壁に結集。
そのまま国境検問所に押し寄せたが警備態勢を整えていなかった東ドイツ政府は、これを傍観するしかなかった。
そしてついには国境ゲートが解放され11月10日ベルリンの壁は取り壊され始めた。
これによって28年間ドイツ分断そして東西冷戦の象徴であったベルリンの壁は崩壊した。
ドイツはその約一年後の1990年10月3日、ソ連、そして東ドイツが一番恐れていた西ドイツによる吸収合併によってドイツは再統一を果たすことになる。ナチスドイツが負けてから45年。再統一したドイツは東西格差という不安要素を残しつつ新しい道へと歩んでいくことなっていった。
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