北朝鮮こと朝鮮民主主義人民共和国は、数々の謎がベールに包まれている。
人は、正体の分からないもの、未知のものに恐れを感じる。そして、それを可能としたのは最高指導者による独裁体制であった。
金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)、そして、金正恩(キム・ジョンウン)という三代にわたる個人崇拝が、国民をコントロールする鍵となり、そのベールを厚くしてきた。
その礎を築いた金日成を通して、何が見えるのだろうか。
祖国解放の英雄
北朝鮮の首都「平壌(ピョンヤン)」
その中心部に建国の父「金日成」と、その息子であり、父の跡を継いで最高権力者となった「金正日」の銅像が立ち並んでいる。
特に金日成像は高さ約23mと、人物像としては世界一の高さを誇る。
人口およそ2,300万の北朝鮮にとって、金一族に対する個人崇拝こそが国家を支えてきたといっても過言ではない。そして、そうした体制は多くのプロバガンダにより築かれてきた。
北朝鮮の歴史では、日本の植民地支配に対し金日成が朝鮮人部隊を指揮して立ち向かい、祖国を解放したとされている。
旧ソビエト連邦の極秘文章には金日成についての記録が残されていた。それによると、金日成は19歳のときから中国東北部の満州地方で抗日ゲリラとして活動している。その後、朝鮮人と中国人から構成された「ソビエト極東軍88特別旅団」に配置され、解放の指導者ではなく、一部隊長の立場として戦っていた。
当時の金日成を知る元ソ連軍ロシア人将校も、朝鮮人だけの解放軍の存在を否定している。
朝鮮民主主義人民共和国 建国
やがて、朝鮮半島北部を手に入れたソビエトだったが、スターリンは友好的な国作りのために「朝鮮人指導者選び」を行った。
友好的とはいえ、ソビエトとしては新たな国の指導者が自国にとって従順でなくては困る。しかも、当時の朝鮮情勢にも通じていなければならない。
そこで、選ばれたのが金日成(キム・イルソン)だった。
そして、朝鮮における「ソビエト歓迎集会」の場において、金日成を抗日闘争の英雄として紹介したのだ。金日成、33歳のことである。
だが、その影にはグレゴリー・メクレルという旧ソビエト軍将校の存在があった。
メクレルは、金日成を見出した人物であり、指導者としてどのように振舞うべきかをすべて教えた。いわば「指導者・金日成」の育ての親である。
メクレルの助けもあり、1948年9月、朝鮮民主主義人民共和国の建国と共に金日成は、首相と党委員長を兼任する最高指導者となった。
歪んだプロパガンダ
建国当時のパレードでは、スターリンと金日成の肖像画が並ぶなど、ソビエトの思惑通りのスタートである。
しかし、1950年に勃発した朝鮮戦争により、100万人以上の犠牲者を出し、3年にもわたる戦いが、ソビエトの青写真を曇らせ始めた。この戦争は、金日成の誤った判断により行われ、多大な犠牲を払ったにもかかわらず、金日成は「アメリカ帝国主義に勝利」したという宣伝に利用したのだ。
勝利集会が開かれ、このときから「敬愛なる指導者」という呼び方が用いられた。
勿論、このプロバガンダもソビエト主導のものである。朝鮮戦争での誤りを払拭し、金日成の権力強化のため、ソビエトでは当たり前の手法であったプロパガンダを利用した。
だが、このことが金日成による独裁の引き金となり、反対派の粛清が始まる。さらに、スターリンの死でソビエトの影響力が緩んだことにより、ソビエト派政党までをも標的とし、金日成に対する個人崇拝が始まったのだ。
北朝鮮の違反
朝鮮戦争の休戦から1年後の集会では、スターリンの肖像は消え、金日成を讃える歌が歌われるようになった。
金日成の肖像画が街のいたるところに掲げられ、ソビエトでも北朝鮮政策の方向性を大きく変えることになる。
近年の調査により、ソビエトを初訪問した金日成に対し、当時のフルシチョフ書記長が、個人崇拝を止めるよう求めていたことが分かった。
ソビエトとしては、金日成による個人崇拝を「深刻な違反であり、対策を講じる必要がある」と考えていたのだ。
事実、当時の北朝鮮では反体制派のあぶり出しが行われ、一ヶ月で2,000人が摘発されている。大規模な公開銃殺も行われた。
だが、ソビエトは強い危機感を抱きながらも、強硬な手段を取れないでいた。北朝鮮の暴挙を糾弾することは、同じ社会主義国のリーダーであるソビエトが、北朝鮮の手綱を握ることが出来ていないと暴露することになると考えたからだ。
そして、ソビエトの黙認が北朝鮮の独断をさらに加速させることになる。
主体思想と個人崇拝
北朝鮮国内では、重工業の分野だけを成長させ、食料や日用品は不足し、福利厚生はおざなりにされるようになった。
1959年に帰国事業が始まると、およそ7万人の在日朝鮮人が「地上の楽園」と呼ばれた北朝鮮へ渡ったが、当時の北朝鮮にはそれだけの国民を食べさせることすら出来ず、不満を口にしたものは逮捕されるようになる。一方で、軍備を拡張し、60年代の試算では国家予算の50%を超えるまでになったのだ。
1965年、金日成は「政治における自主」「経済における自立」「国防における自衛」を柱とした「主体思想」を打ち出し、ソ連や中国に頼らない独自路線を歩むことを発表する。ソビエト式のプロバガンダという洗脳法を、主体思想という具体的なかたちで完成させたことになった。
その結果、金日成は建国の歴史も改竄し、ソビエトの存在を消し去って、己の栄光をそこに刻み込む。
北朝鮮はより過激な行動を取るようになり、アメリカ軍の調査船を領海侵犯の疑いありとして拿捕したことで、アメリカとの軍事的衝突の危機が高まった。もし、それが現実のものとなれば、軍事同盟国であるソビエトも巻き込まれることになる。
11ヶ月にもわたるアメリカとの交渉の末、乗組員の解放と引き換えに、北朝鮮はアメリカの謝罪を勝ち取ったが、それはアメリカにとって苦渋の決断であった。
そして、このことはソビエトにとっても屈辱的な事件となる。北朝鮮をコントロールすることが出来なくなったことが世界に露呈したのだ。
主体思想を核とした個人崇拝により、北朝鮮の独裁体制が暴走し始めたのである。
最後に
この事件を切っ掛けに、ソビエトは北朝鮮との距離を置くようになる。北朝鮮の暴走の火の粉が、いつ自分たちにも降りかかってくるかわからないからだ。しかし、それはソビエトの作り出した金日成という虚像の英雄が、独自の瀬戸際外交を始めるようになる切っ掛けでもあった。
その後、この個人崇拝は息子の金正日(キム・ジョンイル)に受け継がれてゆくことになる。
この記事へのコメントはありません。