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死とカニバリズムに終わった1845年の北極探検 【フランクリン遠征隊】

画像 : ビーチー島に埋葬されている隊員の墓、2004年撮影 wiki c Russell A. Potter

フランクリン遠征隊の失踪」は、1845年から1848年にかけて、イギリス海軍のジョン・フランクリン率いる遠征隊が、北西航路の開拓を目指して出航後、乗組員が全員行方不明になったという、非常に有名な歴史的事件だ。

遠征隊の失踪後、多くの捜査や探索が行われてきたが、遠征隊に何が起こったのかは長年謎とされてきた。

2023年になって、ナショナルジオグラフィックの探索チームが、4ヶ月に渡る再調査に挑んだことで再注目を浴びている。

この探索チームにより、フランクリン隊の隊員が遺棄したであろう様々な遺品がキングウィリアム島で発見されるなど成果はあったものの、最終的な目的であった墓を見つけることはできなかったようだ。

理由はフランクリン遠征隊と同様、氷の海に阻まれ、1週間も身動きが取れない危険な状態になってしまったからだという。

フランクリンの墓が見つかれば、隊員たちの身元や、彼らがどのような最期を遂げたのかを明らかにできる可能性があったため、残念である。

結果的に謎は残ったままとなったが、探索チームはフランクリンの墓が見つかる日を期待して、今後も捜索を続けていくという。

この記事では、1845年のジョン・フランクリン卿の北極探検を振り返り、その結末がどのようにして「死と人食い」につながったかを説明していく。

画像: 1845 年に北極に向けて出発した HMS エレバスと HMS テラーの彫刻 public domain

遠征計画の背景

この探検は、当時の技術やナビゲーションの限界に挑むものであり、船舶技術、氷海航行、および寒冷地での生存に関する知識の向上を目指していたが、最大の目的は「北極地域を横断し、大西洋から太平洋に至る最短航路を見つけること」だった。

この航路が見つかれば、ヨーロッパとアジアを結ぶ新しい貿易ルートが開かれ、巨額の利益が期待された。

ジョン・フランクリン卿は、英国海軍の将校であり、北極地域での探検において経験豊かな指導者だった。彼は以前の探検でノースウェスト・パッセージ(北西航路)を求めて活動し、その名声と指導力から「北極の冠」とも称された。

この探検の予定航路には氷で固まってしまう箇所も多く、大変危険な遠征であるため、海軍将校であり、経験を積んだジョン・フランクリンが指揮をとることになったのである。

フランクリンは過去に3回北極海に遠征しており、その2回目と3回目は隊長を務め、4回目のこの遠征を引き受けたときは59歳だった。

遠征の準備

当初予定されていた遠征の航行距離は約1670キロだったため、3年間分の食料が積み込まれた。

食料庫には、60トンの小麦と肉の缶詰8000缶、チョコレート4トン、壊血病予防のためのレモンジュース4000リットルなどが含まれ、現地で狩猟や釣りをして、食料を調達するための装備も積み込まれた。
さらに船には暖房設備や図書室が備えられた。

遠征隊は2隻の蒸気船、HMSエレバス号HMSテラー号で構成された。エレバス号は約380トン、テラー号は約330トンの大型蒸気船だった。これらの船は船体が強化され、氷海に耐えるために特別な改造が施された。
また、船は独力で時速7.4 km(4ノット)で航海できたという。

フランクリンがエレバス号に乗船し、テラー号には副隊長のフランシス・クロージャーが乗船した。

画像: ジョン・フランクリン卿、遠征隊の指揮官 public domain

遠征隊の出発

当時最新の設備を搭載した大型蒸気船による長期航海の備えは万全だった。

そして、士官24人、船員110人の総勢134名のフランクリン遠征隊は、1845年5月19日に英国のテムズ川河口から出発した。

一行はまず、北スコットランドの沖合オークニー諸島で一時停泊し、HMSラトラーと輸送船バーレット・ジュニアを伴ってグリーンランドに向かい、到着後に輸送船から新鮮な肉類や物資を受取り、エレバス号とテラー号に積み込んだ。

この時点で5人の隊員が解任され、輸送船で帰国したため、総人数は129人になった。

そして再出航した。

初期の段階では氷の影響を受けずに航行を続けたが、後に氷に閉じ込められ、遠征の方向が大きく変わることとなる。

下記写真①付近の、ビーチー島と呼ばれる場所でまずは越冬したが、ここで隊員3人が結核で死亡し、埋葬されている。

画像:フランクリンの失われた航海の推定ルート public domain
1845年夏、グリーンランドのディスコ湾(5)からビーチー島(デヴォン島の南西部にある小島、当地図には記載されていない)に向かい、コーンウォリス島(1)を周回した。翌1846年夏、プリンスオブウェールズ島(2)とサマーセット島(3)の間のピール海峡を下ってブーシア半島(4)の西へ出て、キングウィリアム島(緑色)近くに至ったが氷に閉じ込められた。

氷に閉じ込められる

キングウィリアム島周辺での氷の状況は、フランクリン遠征隊にとって重大な懸念事項だった。

キングウィリアム島周辺は、北極地域の特有の気象条件と氷の影響を受けていた。夏季には氷が一部解けるものの、冷たい気温と厚い氷が一年中続いていた。この地域の氷海は遠征隊の航行を困難にした。

1846年に入ると、遠征隊は氷に閉じ込められるという過酷な現実に直面した。

エレバス号とテラー号は、氷の中を進むことができると考えられていたが、キングウィリアム島周辺の氷の厚さと固さは予想以上だった。

遠征隊は氷の中に閉じ込められたままで越冬し、長期間に渡り、解氷を待つことを余儀なくされた。

そして、1847年5月、ジョン・フランクリン卿が亡くなった。

氷に閉じ込められていた期間が長かったため、食糧が不足し、乗組員は飢えに苦しんだと推測される。
また、疾病が蔓延し、遠征隊の健康に深刻な影響を及ぼした。医療設備や薬品も不足しており、乗組員は限られた資源で疾病に対処しなければならなかった。

なお、近年の調査によって、フランクリン遠征隊が氷に閉じこめられた期間は、約2年間と推定されている。

船の放棄とバック川への進行

1848年4月、遠征隊は氷に囲まれたエレバス号とテラー号を放棄することを決断し、船内に残された物資や装備を持ち出した。

そして、陸路でカナダ本土のバック川方向に向かうことになる。

この時点で士官9人と隊員15人が死亡し、遠征隊は2割近くの人員を失っている。

フランクリン卿の死後、指導権はフランシス・クロージャー大佐に移った。

画像 : クロージャー大佐、遠征隊の執行士官、HMSテラーを指揮 public domain

クロージャーは残存乗組員を指揮し、カナダ本土のバック川方面への旅を開始した。彼らは過酷な環境に立ち向かいながら、南へ向かう旅を続けた。

遠征隊が船を放棄し、陸路での旅に出た背後にはさまざまな苦境があった。低体温症、飢え、壊血病などの病気が隊員を襲い、適切な衣類や栄養が不足していた。さらに、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置からの鉛中毒の影響もあったことが示唆されている。

確かな記録として確認できるのはここまでであり、南に向かった遠征隊の生き残りの足跡は明らかでない。

ただ、イヌイットの証言や遺骨、遺物が、キングウィリアム島の西岸、南岸、およびカナダ本土のアデレード半島に散在しており、これらは「史上類例のない過酷な死の行進」であったことを示している。

見つかった人骨の切断面からは、人肉食を行った痕跡がみられ、これは遠征隊が飢えに苦しんだ極限の状況で、人食を実行したことを示す証拠ともいえる。

しかし、遠征隊の最期の地点は不明であり、チャントリー湾より南に到達した証拠は見つかっていない。

これ以外にも、探検隊の死因は、飢餓、寒さ、病気、事故など、諸説あるが、はっきりとは分かっていない。

救援遠征と遺物の発見

フランクリン遠征隊の消息が途絶えた後、その失踪は国際的な注目を集めた。
家族や英国政府は遠征隊の安全な帰還を切望したが、年月が経つにつれて希望が薄れていった。

1850年代に入ると複数の救援遠征隊が派遣され、キングウィリアム島周辺で遠征隊の遺物と記録のいくつかが発見された。

これらの遺物には遠征隊の装備や個人の品物、船の残骸が含まれており、遠征隊の存在と苦難の証拠となった。

画像: 1859年5月にキングウィリアム島バックベイの南のケアンで発見されたメモ public domain メモには、英語、フランス語、スペイン語、オランダ語、デンマーク語、ドイツ語で「この文書を発見した者は、発見年月日と場所を添えて海軍本部か英国領事館へ届けてほしい」と書かれていた。

遠征失敗についての考察

フランクリン遠征隊の北西航路横断はなぜ失敗したのだろうか?

いくつかの説と合わせて、考察してみる。

フランクリンの健康問題

失敗した理由の一つとして、フランクリンの健康問題が挙げられている。

フランクリンは遠征出発時点ですでに59歳であり、過酷な航海に耐えられるかどうか懸念されていた。実際にフランクリンは2度目の越冬中に死亡しており、心臓発作だったといわれている。

フランクリンの判断ミス

フランクリンの指揮官としての判断も、遠征失敗の原因となった可能性がある。

彼はキングウィリアム島の西側に進むことを選んだが、この判断が北西航路横断を失敗に導き、後の大惨事を招いたとされている。

キングウィリアム島の西側は、大量の氷が北極海から押し寄せる危険な海域であった。さらに不運なことに1847年から翌年にかけては異常気象で、夏でも氷が溶けなかったのだ。

では、なぜフランクリンは島の西側を選んだのか?

当時、まだキングウィリアム島は詳しく調査されておらず、島ではなく、カナダ本土と陸続きになっている半島だと考えられていたのである。
それらの情報を信じ込んでいたフランクリンは、島の西側に進むしか選択肢がなかったのだろう。

後に、東の航路こそが唯一の北西航路横断可能ルートとされている。

副隊長のクロージャーはなぜ、バック川を目指したのか?

画像 : 遠征隊がが通った可能性のあるルートの地図  ※バック川は写真下部のBack R. wiki c Hans van der Maarel

死亡したフランクリンに変わって、遠征隊の指揮をとったクロージャーはなぜ、バック川(Back R)を目指したのだろうか?

遠征隊は船を放棄した後、凍った界面を歩き島に上陸し、カナダ本土を流れるバック川を目指すために出発した。

バック川上流にはビーバーなどの毛皮を加工するイギリスの毛皮工場があり、そこはキングウィリアム島から一番近くにある西洋人の居住地だった。
そこまでたどり着くとことができれば、無事にイギリスに帰還できると考えたのだろうか?

しかし、そこに到達するには1000キロ以上の距離を歩かなくてはならならず、バック川周辺は足場の悪い湿地帯や曲がりくねった河川、危険な滝壺など、道のりも過酷を極める。
それはあまりにも無謀な行為だ。

そのため、バック川を目指した理由は他にあったとも言われている。

鉛中毒

遠征隊が死亡した原因は餓死だけではなく、他にも原因があったと考えられており、その一つが鉛中毒だ。

画像 : 鉛 イメージ

鉛中毒に壊血病(後述)の影響が重なり、隊員にとって致命的なものになった可能性が疑われた。

1984年、とある人類学者がキングウィリアム島で発見した人骨と、ビーチェイ島に埋葬されていた3人の遺体を掘り起こし、遺体に含まれる成分を調査した結果、遠征隊は基準値を超える多くの鉛を取得していたことが判明した。

基準値を超えた量の鉛を摂取し続けると、貧血や精神障害、激しい腹痛などの様々な症状が現れ、最悪の場合死に至る。

鉛中毒を起こした原因としてまず考えられたのは、船内に含まれていた「8000缶におよぶ缶詰」である。

この缶詰は、コストを安く抑えることを重きにおいて作られ、さらに納期が差し迫っていたことから、かなり雑に作られていた。缶詰は接合部を鉛でハンダ付して作られていたが、この鉛が中身の食品に接触して溶け出していた可能性があった。

だが、はんだ付けされた鉛が食品に溶け出す量は極めて微量であり、食中毒を引き起こすには不十分だと考える研究者もいる。

またそれ以外では、缶詰は熱湯で煮沸されたが殺菌が不十分だったため、ボツリヌス菌が繁殖していた可能性があったという。

最近の研究では別の原因として、缶詰の食料ではなく、遠征隊の船に取り付けられた水の蒸留装置だったことが示唆されている。

壊血病

さらに船員を苦しめたのが、壊血病(深刻なビタミンC不足によって引き起こされる病気)である。

画像 : 壊血病 イメージ

長期間、海氷に閉じ込められていた船には、壊血病予防のために積み込まれたレモンジュースや、新鮮な食料は残っていなかったと推測されている。

新鮮な食材が尽き、壊血病が蔓延したことも、船を放棄させた要因だったのだろう。

餓死と人食

定説では、船を放棄した後、キングウィリアム島を南部へ進んでいく過程で隊員たちは次々に命を落としていき、生き残った隊員もアデレード半島の先端にある、通称「餓死の入り江」という場所で全滅したといわれている。

画像 :アデレード半島の位置

「餓死の入り江」付近や、遠征隊が進行したであろう場所からは多くの人骨が見つかっている。

その人骨を調査すると、人肉食を行ったさまざまな痕跡(人体を解体したり、肉を骨から削ぎ落としたり、骨を切断したり、鍋で煮るなど)が発見された。

隊員たちは(死んだ)仲間の骨から骨髄を吸い出し、最後の一滴まで栄養分をしぼりつくそうとした可能性が高いという。
さらに一部の人骨の中には、生きている状態で肉体の一部を食べていた痕跡もあったという。

これは遠征隊が極限状況の中で、少なくともある集団が最終段階で人食いを実行したことを示す証拠である。

しかし、最も恐ろしいことは、遠征隊が全滅を迎える直前のデスマーチ(死の行進)では、他に食料がなく、ほぼ人肉しか食べていなかったという事実である。

この極限の状況下で人肉食を実行したことは、遠征隊員の絶望と生存への最後の試みであり、北極探検の過酷さを象徴している。

さいごに

ジョン・フランクリン卿が率いた1845年の遠征隊は、北西航路の探索という使命を背負って出発したが、過酷な環境、飢え、寒冷、疾病に見舞われ、最終的には全員の命を落とす結末を迎えることとなった。

この遠征は、未知の領域への挑戦、そして極限の生存戦略を示すものとして、探検の世界における重要な教訓となり、科学、地理学、探検の分野において重要な遺産を残した。

そして、失踪の謎とその解明についての研究は、科学的な発展と歴史の解明に寄与することになった。

フランクリン遠征に関する続報と研究は、失踪から長い時間が経過した今でも続いており、現代の科学技術を駆使した調査は今も続いている。(エレバス号の残骸は2014年に、テラー号の残骸は2016年に発見された)。

近年の調査によって、フランクリン遠征隊の失踪の全貌が少しずつ明らかになってきたが、依然として謎が残されており、今後の調査が待たれている。

参考 : National Geographic

 

lolonao

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フィリピン在住の50代IoTエンジニア&ライター。
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