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イスラエル、イランへミサイル攻撃
米ABCテレビによると、現地時間19日早朝、イスラエルがイランに対してミサイル攻撃を行いました。今月14日にイランから受けた大規模攻撃への報復措置とみられます。
複数のミサイルがイラン領内に着弾し、CNNはイラン中部イスファハンで爆発音が確認されたと地元メディアが伝えたと報じました。イスファハン周辺にはイランの核関連施設もあります。
被害の詳細は明らかになっていませんが、今回の事態で、イスラエルとイランの対立が新たな局面を迎えたことは確実です。
報復の連鎖による地域情勢の悪化が懸念されます。
イスラエルの強硬姿勢に国際社会から懸念の声
またイスラエルは現在、パレスチナ・ガザ地区にも侵攻を続けています。多くの民間人が犠牲になっており、イスラエルの強硬な態度には、国際社会から懸念の声が上がっています。
なぜイスラエルは国際的な批判を浴びても、強気な姿勢を崩さないのでしょうか。その背景には、イスラエルが建国以来直面してきた歴史的な経緯があります。
今回の記事では、イスラエルが選択してきた国家戦略について、歴史的な視点から詳しく見ていきたいと思います。イスラエルが国際社会に対して抱える不信感を探ることで、現在のイスラエルを理解する一助となれば幸いです。
「全世界を敵に回しても生き残る」というイスラエルの国家戦略
1967年の第三次中東戦争において、イスラエルは「全世界の同情を買って滅びるより、全世界を敵に回しても生き残る」という国家戦略を世界に示しました。
この戦略の根底には、イスラエルが歴史的に積み重ねてきた他国への強い不信感があります。
ユダヤ人は国家を持たなかったがために、長きにわたって迫害を受けてきました。ナチスドイツによるホロコーストは、ユダヤ人の民族的な記憶に消えない傷を残しました。この悲惨な経験から、ユダヤ人は自分たちの安全を他国に委ねることはできないと固く信じるようになります。
第二次中東戦争(スエズ動乱)がイスラエルに与えた影響
イスラエルは建国直後から、周辺のアラブ諸国との間で度重なる紛争を経験してきました。
1948年の独立戦争、1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)、そして1967年の第三次中東戦争と、イスラエルは常に自国の存在そのものが脅かされる状況に置かれてきたのです。
その中でも第二次中東戦争(1956年)は、イスラエルにとって大きな転機となりました。
第二次中東戦争は、エジプトのナセル大統領がスエズ運河を国有化したことにが原因です。イスラエル、フランス、イギリスの三国は、エジプトに対して軍事介入を行い、スエズ運河の占領を目指しました。
そのため第二次中東戦争は「スエズ動乱」とも呼ばれています。
当時のイスラエルは、フランスやイギリスと同盟を組み、エジプトに勝利を収めました。しかし戦争は突然終わりを迎えます。その理由は国際社会の圧力、とくにアメリカとソ連によるものです。戦闘では勝利したにもかかわらず、外交的にはほとんど成果を上げることができませんでした。
イスラエルが期待していたアメリカやイギリスからの実質的な支援も得られず、アメリカはスエズ動乱に介入せず、ソ連の主張に同調する形で戦争の終結を求めました。一方のイギリスは経済的な理由から、イスラエルへの支援をストップせざるを得ませんでした。
同盟国からの裏切りとも感じられるこのような経験は、イスラエルに大きな失望と不信感を与えました。
「自国の存在が脅かされる状況下で、他国の支援は当てにならない」。イスラエルはこの教訓を、身をもって学んだのです。
イスラエルに求められる不信感の克服
これ以降のイスラエルは、自国の防衛を自国の手で行うことを最優先事項として定めます。外交的な解決よりも、軍事力を重視する姿勢を強めたのです。そして1967年の第三次中東戦争での圧勝は、まさにイスラエルの正当性を証明するものとなりました。
しかしイスラエルの不信感に基づく姿勢は、長期的な視点に立てば、中東の平和と安定を実現する上での障害となるでしょう。イスラエルが周辺国との関係改善に向けて、不信感を乗り越える努力を始めることが、今こそ求められているのです。
参考文献:ゆげ塾 , ゆげひろのぶ他(2019)『ゆげ塾の中国とアラブがわかる世界史』ゆげ塾出版
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