ラジウムの発見とその誤解
ラジウム・ガールズをご存知だろうか。彼女たちは「光り輝く女性たち」とも称されている。
20世紀初頭、アメリカで「ラジウム」という新しい物質が発見され、医療や産業界で画期的な発明として大いに期待された。
しかし、この発見の裏には数多くの無知や誤解、そして痛ましい犠牲が隠されていた。その中でも特に有名なのが、「ラジウム・ガールズ」として知られる女性工場労働者たちの悲劇である。
1898年、ピエール・キュリーとマリー・キュリー夫妻が「ラジウム」という放射性元素を発見した。
当時、放射線に関する知識は限られており、ラジウムは「奇跡の物質」として広く注目された。ラジウムはがん治療に効果があるとされ、「病気を治し、健康を強化する」と信じられていたため、医療や健康産業で盛んに利用された。
また、ラジウムは空気中で酸化し、青白く光る性質があるため、その発光性を利用して夜光塗料として使用された。
1920年から1930年にかけて工業的な用途として使用され、暗闇でも時間が見やすくなるために文字盤などに塗られ、盛んに使用された。
その時計工場で蛍光塗料を塗っていた女性たちこそが、「ラジウム・ガールズ」である。
時計工場で働くラジウム・ガールズ
1917年から、ニュージャージー州オレンジをはじめとするアメリカ各地の工場で、若い女性たちが時計の文字盤や計器にラジウム入り塗料を塗る作業に従事した。
時計工場での仕事は給料や待遇も良く、若い女性たちの応募が殺到した。
また、ラジウムは病気を治したり、体を強くするという宣伝文句が謳われていたことから、彼女たちは体に良いものと思い込んでいた。
彼女たちは、ラクダの毛を使った細い筆を使って文字盤にラジウムを塗っていたのだが、筆の先は徐々に乾燥によって割れてくる。
そこで、口で舐めて筆を整える「リップ、ディップ、ペイント」という手法で作業を行い、それを後輩へ、また後輩へと伝えていったのだ。
この結果、彼女たちは日常的にラジウムを口から体内に取り込むことになった。
しかし、工場の経営者たちや科学者たちは、実はラジウムの危険性を知っていた。科学者たちは防護具を使用し、慎重にラジウムに接触していたが、労働者には何の防護も施されていなかったのである。
これは、前述したように「ラジウムは、少量であれば体に良い」と安直に思い込まれていた背景があり、実際に多くの会社がラジウム入りの飲料水製造器や、バターや牛乳などを「健康食品」として販売していた。
こうして、仕事現場にはラジウムの粉末が飛び交い、彼女たちは長時間に被爆し続け、ついには体や歯までもが発光し始めたのである。
しかし、彼女たちは自分たちの体や服がラジウムによって光ることを喜んでいた。
現れ始めた体調不良
そして、ついに1人のラジウム・ガールズの体に異変が生じ始めた。
初めは症状の軽いものだった。異常な疲れ・足の痺れ・体の関節から奇妙な音が鳴るようになった。
しかし徐々に症状は悪化し、歯が抜け落ち、歯茎が壊死し始めた。
ラジウムは、体内に入るとカルシウムのように骨に蓄積し、放射線を放ち続け、骨が徐々に破壊されるのである。
あご骨はボロボロになり、手で触るだけで崩壊してしまった。身体中に痛みがあり、痛くない場所はなかったという。
診察した医師は「彼女が関わっているラジウムに原因があるのではないか?」と推測した。
その後、工場も「筆を口ではなく、布で拭き取るように」と指示を変えた。ところが、布で拭き取るとラジウムを多く浪費してしまうことから、結局は元の手法へ戻ってしまったという。
工場側がようやく本格的に調査を始めたのは、1925年6月7日に、会社の科学者の1人が体調不良を起こし、亡くなってからだった。
この調査により、ラジウムによる健康被害が公に認識されるようになった。
推定4,000人以上の労働者がラジウムの被害を受けたとされ、正確な死亡者数は不明である。
1922年の時点で最初の犠牲者が発生し、訴訟を起こした原告たちは最終的には全員が死亡している。
少なくとも、112人以上がラジウム中毒で命を落としたと推測されている。
勇気ある女性たちの闘い
1920年代後半、5人の女性が工場を相手取り、ニュージャージー州の労働災害法に基づいて訴訟を起こした。
先頭に立ったのはグレイス・フレイヤー(28歳)であった。
この訴訟は1928年に和解が成立し、ラジウム・ガールズたちが労働者の権利を守るために立ち上がった象徴的な事件となった。
しかし、グレイス自身は1933年10月27日、肩のラジウム誘発性肉腫により34歳で亡くなっている。
さらに、イリノイ州の工場でも同様の訴訟が起こされ、1938年に女性たちは賠償を勝ち取った。
イリノイ州の裁判では、ラジウムによる被曝が長年にわたり無視されていたことが明らかにされ、労働者の権利を守るための法整備に大きな影響を与えた。
彼女たちの物語は書籍や映画、演劇など多くのメディアで取り上げられ、「ラジウム・ガールズ」の名は今も語り継がれている。その勇気と犠牲は、現代においても労働者の権利を守るための重要な教訓となっているのである。
参考 : Kate Moore, The Radium Girls: The Dark Story of America’s Shining Women, 2017 他
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