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秦氏が本貫地とした「太秦」に残る史跡
京都市右京区の太秦一帯には、秦氏の氏寺であった広隆寺のほか、秦氏に関係する寺社、古墳、史跡が点在している。
秦氏は漢氏(あやし)などと並ぶ有力な渡来系氏族で、かつての大和国、山背国、河内国に住み着いて、土木や養蚕、機織などの優れた技術で大きな勢力を築いた。
『日本書紀』によれば、京都・嵯峨野を秦氏の本拠としたのは雄略天皇であるとする。
雄略天皇は、西日本のあちこちに住んでいた秦氏の人々を集めて、側近の秦酒公(はたのさけのきみ)に仕えさせたとの記述がある。

画像:大酒神社境内入り口(撮影:高野晃彰)
その酒公が住んでいたのが太秦(うずまさ)で、彼は秦氏の人々が作った大量の絹を、雄略天皇に献上したという。
宮殿の庭先に絹がうず高く積まれた様子を見て喜んだ天皇が、酒公に「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を与えたという逸話も記されており、これが太秦(うずまさ)という地名の由来とする説もある。
推古朝になると秦氏の族長として、聖徳太子の側近、秦河勝(はたのかわかつ)が登場する。
『上宮聖徳太子伝補闕記』によれば、587(用明天皇2)年の丁未の乱で、聖徳太子は蘇我馬子とともに、河内国渋川郡にあった政敵の物部守屋の館を攻めた。
この時、太子に従って従軍した秦河勝が、物部守屋を討ち取ったとされる。
その後、河勝は603(推古天皇11)年に、聖徳太子から弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、それを安置するために蜂岡寺、後の広隆寺を建てたともいわれる。

画像:秦河勝『前賢故実』より public domain
弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝第1号の仏像で、広隆寺霊宝殿で拝観できる。
霊宝殿にはこの他、寄木造の千手観音(藤原期)、聖徳太子16歳像(鎌倉期)など、飛鳥、天平、平安、鎌倉と、それぞれの時代を代表する仏像が安置されている。
秦氏の本貫地・太秦の回り方は、
①天塚古墳→(徒歩約15分)→②蚕ノ社→(徒歩約18分)→③大酒神社→(徒歩約5分)→④広隆寺→(徒歩約8分)→⑤三吉稲荷神社/牧野省三の顕彰碑→(徒歩約3分)→⑥大映通り商店街→(徒歩約5分)→⑦蛇塚古墳
という順番がおすすめだ。
それでは、太秦の各史跡・旧跡を紹介しよう。
①「天塚古墳」~秦氏一族の奥津城か~

画像:天塚古墳の横穴式石室(撮影:高野晃彰)
京都市内にある古墳の中では、蛇塚古墳に次ぐ規模を持つ、全長73メートルの二段築成の前方後円墳である。
築造年代は古墳時代後期の6世紀前半頃と推定されており、秦氏一族の墓であった可能性が指摘されている。
②「木嶋神社(蚕ノ社)」~秦氏ゆかりの社~

画像:木嶋神社本殿と蚕ノ社 wiki.c
木嶋神社(正式名:木島坐天照御霊神社)は、本殿の東隣に、蚕ノ社と呼ばれている蚕養神社が鎮座する。
同社の創建年代は不詳だが、604年(推古天皇12年)に広隆寺の創建に伴って勧請されたという説もある。
ここも秦氏ゆかりの神社ともいわれ、蚕ノ社も、秦氏が普及に貢献した養蚕・機織・染色技術に因んだものと推測されている。

画像:元糺の池と三柱鳥居(撮影:高野晃彰)
境内の森は「元糺の森」と呼ばれ、秦氏系の氏族賀茂氏が祭祀する下鴨神社の「糺の森」と関係が深いとされる。
また「元糺の池」もあり、この中に謎の三柱鳥居が立つ。
上から見ると三角形に見える鳥居で、三角の頂点がそれぞれ秦氏に関係する松尾大社、伏見稲荷、双ヶ岡を指すことから、秦氏の聖地への遥拝所ではないかとの説もある。
③「大酒神社」~秦氏の租を祭神とする神社~

画像:大酒神社(撮影:高野晃彰)
広隆寺の東に鎮座し、秦氏の租とされる弓月王の孫・秦酒公を祭神とする。
古文書には大辟、大避、大裂、大荒とも記載され、秦氏の長の秦酒公の功績を讃えて、後に「大酒」に改められたともいう。
かつては広隆寺の境内内にあったが、神仏分離により現社地へ遷座した。
その創建は広隆寺よりも古いともいわれ、太秦一帯に秦氏ゆかりの人々が移住した後、氏族の崇敬する社として建てられたのではないかともいわれる。
京都三大奇祭の牛祭は、当社の祭礼で京都市登録無形民俗文化財に指定されている。
④「広隆寺」~国宝第1号の本尊を祀る秦氏の氏寺~

画像:広隆寺山門(撮影:高野晃彰)
『日本書紀』によれば、603年(推古天皇11年)、秦河勝により秦氏の氏寺として建立されたとされる。
また、『広隆寺縁起(承和縁起)』などでは、622年(推古天皇30年)に死去した聖徳太子の供養のため、同年に建立されたと伝わる。
いずれにせよ、文献により創建に関する記述が残る、京都最古の寺の一つに数えられている。

画像:広隆寺(撮影:高野晃彰)
建物は818年(弘仁9年)の火災で全焼し、現在の講堂(重要文化財)は1165年(永万元年)に落成した建物の後身とされる。
本尊は霊宝殿に安置されている、国宝指定第1号の弥勒菩薩半跏思惟像である。
右手の中指を頬にあてて物思いにふける姿のこの像は、「釈迦の死後56億7千万年後の世に現れ、釈迦に代わって人々を救う未来仏」とされている。

画像:宝冠弥勒菩薩半跏思惟像 public domain
弥勒菩薩像の像高は123.3cm、坐高は84.2cm。
現在、像表面はほとんど素地を見せているが、もとは金箔で覆われていたことが、下腹部などに残るわずかな痕跡から明らかである。
聖徳太子を祀る桂宮院(国宝)は、1251年(建長3年)、中観上人によって再建された伽藍である。
法隆寺の夢殿に似た単層八角円堂の建物だが、残念ながら非公開となっている。
⑤「三吉稲荷神社」~牧野省三顕彰碑が建つ神社~

画像:三吉稲荷/牧野省三の顕彰碑(撮影:高野晃彰)
大映通り商店街に面した神社で、1928年(昭和3年)に広大な竹藪が切り開かれて日活撮影所が移転してきた際、住処を失ったキツネやタヌキを哀れんだ日活関係者によって建立された。
境内には、「日本映画の父」と称される牧野省三を顕彰する碑が建てられている。
⑥「大映通り商店街」~映画とともに発展した商店街~

画像:大映通り商店街(撮影:高野晃彰)
嵐電の太秦広隆寺駅前から帷子ノ辻に至る、約700mにわたる商店街。
かつての大映京都撮影所とともに発展してきた通りで、往時には撮影の合間に映画スターが衣装のままで歩いていたという。
現在も「キネマストリート」の愛称で親しまれ、映画関係者が通う飲食店などが軒を連ねている。
⑦「蛇塚古墳」~京都府最大の石室を持つ古墳~

画像:蛇塚古墳横穴式石室(撮影:高野晃彰)
蛇塚古墳は、全長75メートルを誇る前方後円墳で、国の史跡にも指定されている。
太秦を含む嵯峨野一帯には、6世紀以降に築かれた古墳が点在しており、蛇塚古墳もその一つに数えられる。
かつてこの地を開発した秦氏ゆかりの首長の墓と考えられ、一説には秦河勝の墓とも伝えられている。
築造は古墳時代後期、すなわち6世紀末から7世紀初頭にかけてと推定されており、京都府内では最晩期にあたる古墳の一つである。
現在では墳丘を覆っていた封土が失われ、大規模な横穴式石室(全長17.8メートル)が露出しており、間近でその構造を観察できる。

画像:太秦周辺の秦氏関連マップ(制作:高野えり子)
さて今回は、「秦氏が本貫の地とした太秦」をめぐる歴史散歩を紹介した。
このコースは、各史跡や旧跡の見学時間も含め、ゆっくり歩いてもおよそ3時間ほどで一巡できる。
時間に余裕があれば、散策のあとに映画の街・太秦を象徴する「東映太秦映画村」を楽しんだり、京福嵐山線に乗って嵐山へ足を延ばし、秦氏が土木技術で築いた大堰川や、氏神として崇敬された松尾大社を訪ねてみるのもおすすめだ。
参考 :
京都歴史文化研究会 『京都ぶらり歴史探訪ガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
文:写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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