インバウンドの増加や観光公害の問題もあって、最近は「京都らしさが薄れた」なんて声を耳にすることも増えました。
とはいえ、京都は西暦792年から実に1200年ものあいだ、日本の都として栄えてきた街。やはり日本文化の発信地であることに変わりはありません。
「1200年の歴史」と聞くと、なんだかそれだけで背筋が伸びてしまいそうですが、そんな長い時間をかけて育まれてきた文化が、今も日常の中に自然と息づいていることを思うと、京都ってやっぱりすごい場所ですよね。
茶の湯や生け花、日本舞踊など、京文化を挙げ始めたらきりがありません。
最近では観光で訪れても、さまざまな体験プログラムが用意されていて、気軽に「京都文化」に触れられる時代になりました。
とはいえ、「自分には縁遠いかも」「なんだか敷居が高そう……」と感じてしまう世界があるのも、正直なところではないでしょうか。
そこで今回は、そんな京文化の中でも“極め付き”とも言える存在、ひときわ謎めいた世界「花街」、そしてそこに生きる舞妓さんにスポットを当ててみたいと思います。
「一見さんお断りって本当?」「舞妓さんとはどうやって遊ぶの?」
ベールに包まれたその世界を、少しだけ覗いてみましょう。
花街が受け継いできた想いを凝縮した誓い

画像:舞を披露する舞妓さん(撮影:高野晃彰)
一. 私たちはつねに美しく、優しく親切にいたしましょう。
二. 私たちは祇園の伝統を誇りとし、心の修養につとめ、技芸の習得にはげみましょう。
三. 私たちは善良な風習を乱さない様、清潔でありましょう。
四. 私たちは京都の国際的地位を認識し、新知識の吸収に意を用い、視野を広めましょう。
五. 私たちは常に良き風習を作り、皆さんから愛せられましょう。
と、冒頭から少し硬い言葉が並びましたが、落ち着いて読んでみると、どれも背筋がすっと伸びるような、美しく気高い言葉ばかりだと感じませんか。
実はこの文章、祇園で舞妓見習いとなった少女たちが通う「八坂女紅場学園」で、新春の始業式に生徒全員が声をそろえて唱える「芸妓舞妓の誓い」です。
舞や唄、三味線といった技芸だけでなく、心構えや生き方そのものを大切にする、そんな京都の花街が長年受け継いできた想いが、この短い誓いの中にぎゅっと詰まっているのです。
昔とは異なり「自分の意志」で花街に飛び込む

画像:花街・宮川町の置屋(撮影:高野晃彰)
では、この記事のテーマである舞妓さんや芸妓さんと遊ぶ「お茶屋遊び」って、そもそも何なんでしょう?
名前は聞いたことがあっても、「じゃあ実際に何をするの?」と聞かれると、答えられる人は案外少ないものです。
というのも、この世界、地元・京都に住んでいても、よほどその道に詳しい人でない限り、実態なんてほとんど分からないんですよ。
正直なところ、普通に暮らしていたらまず縁がありません。
ましてや観光で京都を訪れた人なら、なおさらです。
舞妓さんに憧れはあっても、「ちょっと覗いてみようかな」なんて気軽に足を踏み入れられる世界ではない、というのが本音でしょう。
それでは、「お茶屋遊び」をちゃんと知ろうと思ったら、何から押さえればいいのか。
答えはシンプルで、まずは京都の「花街(はなまち・かがい)」、そして、そこで働く芸妓さんや舞妓さんの存在を知ることなのです。

画像:祗園を代表するお茶屋・祇園一力亭 public domain
今、京都市内にある花街は全部で5つ、先斗町、宮川町、上七軒、祇園東、祇園甲部です。
この5か所をまとめて「五花街」と呼んでいます。
では、そこで実際にどれくらいの人が働いているのか。
京都伝統技芸振興財団、通称「おおきに財団」のデータによると、2024年時点で五花街全体の人数は、芸妓さんが155人、舞妓さんが56人。合わせて211人です。
25年前の2000年にはおよそ250人いたそうなので、「あれ、意外と減ってない?」と感じる方もいるかもしれません。
数字にすると、だいたい15%ほどの減少です。
ただ、戦後すぐの頃には、600人を超えていたという記録も残っているのです。
そう考えると、やはり長い目で見れば、人数は減り続けていると言わざるを得ません。
背景も、昔と今とでは大きく違います。
戦前は、家が貧しかったために花街へ奉公に出され、その流れで舞妓になった、という少女も決して少なくありませんでした。
でも今は、もうそんな時代ではありません。
京都を訪れ、たまたま目にした舞妓さんの姿に心を奪われ、「こんな世界があるんだ」「私もなりたい」と、自分の意思で舞妓を目指す。
今では、そうしたケースがほとんどになっているのです。
見た目とは対照的な厳しくて大変な修行

画像:舞妓。所作の一つひとつが伝統的な京文化を表現する(撮影:高野晃彰)
月はおぼろに東山
霞む夜毎のかがり火に
夢もいざよう紅桜
しのぶ思いを振袖に
祇園恋しや だらりの帯よ夏は河原の夕涼み
白い襟足ぼんぼりに
かくす涙の口紅も
燃えて身を焼く大文字
祇園恋しや だらりの帯よ鴨の河原の水やせて
咽(むせ)ぶ瀬音に鐘の声
枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら
祇園恋しや だらりの帯よ雪はしとしと丸窓に
つもる逢瀬(おうせ)の差し向い
灯影(ほかげ)つめたく小夜(さよ)ふけて
もやい枕に川千鳥
祇園恋しや だらりの帯よ[長田幹彦作詞・佐々紅華作曲]
これは、京舞井上流四世・井上八千代が振り付けを手がけ、祇園を代表する舞として知られる『祇園小唄』の歌詞です。
歌詞にもあるように、京友禅の華やかな着物に、金銀模様のだらりの帯を締めた舞妓の姿は、やっぱり特別。
そんな可憐で美しい姿に憧れて、毎年たくさんの少女たちが花街の門を叩きます。

画像:舞妓さんが締めるだらりの帯(京都五花街)
ですが正直に言うと、憧れだけで務まるほど、花街の世界は甘くありません。
今は義務教育があるので、多くの子は中学校を卒業した15~16歳で屋形(置屋)に入り、住み込みの見習い生活を始めます。
そこでは、“おかあさん”や先輩舞妓から、礼儀作法はもちろん、京言葉まで、徹底的に教え込まれます。
それだけじゃありません。
舞妓の本分である舞の稽古に加えて、茶道、小唄、華道など、覚えることは山ほどあります。
こうした厳しい見習い期間を経て、多くの子が約1年後、ようやく舞妓として「みせ出し」を迎えるのです。
「1年って、意外と短いじゃない?」「そんな期間で、本当に芸事や京文化が身に付くの?」と思う人もいるかもしれません。
でも、実際はその逆。たった1年だからこそ、ものすごく濃い時間なのです。
この1年は、まさに修行の日々。
想像以上に過酷で、途中で心が折れて辞めてしまう子も決して少なくありません。
さらに、晴れて舞妓になったあとも、お座敷の空気に馴染めず挫折してしまうケースがあるそうです。
数年前には、元舞妓がSNSで、お座敷での飲酒の強要やパワハラ・セクハラ行為を告白し、話題になりました。
それ以降、無理にお酒を勧めるようなことは控えようと、各花街で自粛の動きが広がっているとも聞きます。

画像:舞妓の肩上げの着物と花簪 public domain
また現在の制度では、中学卒業後に見習いになった場合、舞妓としていられるのは基本的に20歳まで。
つまり舞妓でいられる期間は、長くても4~5年ほどで、花街ではこの限られた時間を「奉公期間」と呼んでいます。
舞にしても小唄にしても、芸の道に「ここまでやれば十分」という終わりはありません。
だからこそ、その短い期間で、どれだけ本気で修行に向き合えるかがすべてなのです。
舞妓デビューまでの1年間、そして20歳までの4~5年間は、好きなものを自由に食べたり、買い物や遊びを楽しんだりすることもままなりません。
大げさではなく、毎日のように叱られながら過ごす、そんな生活が続いているのです。
ですがここを疎かにすると、芸妓になってから、思い描いていた花街での活躍は難しくなってしまいます。
華やかな衣装や笑顔の裏で、舞妓たちは想像以上の努力と覚悟を重ねています。
舞妓という存在が、見た目の美しさだけでは語れない、厳しくて大変な仕事だということ、少しでも伝わったでしょうか。
10代の若さで驚くほど幅広い知識が身に付く

画像:茶道を披露する舞妓と芸妓 public domain
厳しい修業の世界に身を置く一方で、舞妓には、同世代の女の子たちが送る一般的な青春とはまったく異なる舞台で活躍できる、特別な一面があります。
ひとたびお座敷に出れば、相手をするのは各界で名を知られる一流の人物ばかり。
自然と、その人たちの知識や考え方に触れる機会に恵まれます。
いわば「耳学問」ではありますが、こうした環境に日常的に身を置くからこそ、舞妓たちは10代という若さで驚くほど幅広い知識を身につけていきます。
普通に高校や大学へ通う同世代と比べても、世間の常識や人との向き合い方をしっかりと心得ている。
それもまた、舞妓という生き方が育む、大きな魅力のひとつなのです。
※参考文献
京あゆみ研究会(高野晃彰)著 『京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ
文:撮影/高野晃彰 校正/草の実堂編集部
























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