久米寺(くめでら)は、大和三山の一つである畝傍山の南に位置し、橿原神宮の一の鳥居をくぐってすぐ南にあります。
この寺院は「久米の仙人」の伝説で広く知られており、現在は仁和寺の別院として真言宗の寺院です。
「久米の仙人」の伝説とは、一体どのようなものなのでしょうか。
久米寺に足を運んでみました。
久米寺の歴史
久米寺の所在する地域は、もともと久米部(くめべ)の武人たちが住んでいたと伝えられています。
推古天皇の2年に、厩戸皇子(聖徳太子)の弟である来目皇子(くめのおうじ)が、この地に寺院を創建したことが久米寺の始まりとされています。しかし、これらは伝承に基づくものであり、創建の正確な事情については不明です。
来目皇子は幼少の頃に眼病を患い両目を失明しましたが、厩戸皇子のお告げに従って薬師如来に祈願したところ、平癒したと言われています。
こうして、皇子は自らを「来目皇子」と称しました。
この伝承に関連し、久米寺の本尊も薬師如来となっています。
現在の久米寺の境内には、薬師如来が安置された本堂をはじめ、京都の仁和寺から移築された重要文化財の多宝塔、観音堂、御影堂、地蔵堂などが建ち並んでいます。
また、金色に輝く大日如来像や、親しみやすい久米の仙人像も見ることができます。
さらに、境内には東塔の巨大な礎石が残っており、伽藍が整備された7世紀末の白鳳時代には、広大な寺域を誇る寺院であったことをうかがわせます。
そもそも仙人とは
仙人という概念は、中国の道教の思想からもたらされたものです。
道教は多神教であり、神仙を信仰する宗教です。神仙における「神」には、天神、地祇、物霊、人体の神、人鬼の神など、多様な神聖な存在が含まれます。
一方、「仙」は仙真を指し、仙人と真人が存在します。これらの仙人や真人は、後天的に修練を積み重ねることで道を得て、神通力を獲得した人々を指します。仙人は不死の存在であり、神通力や仙術を駆使して人々を助ける存在とされています。
道教の仙人の概念は、体系的に日本に伝来したわけではありませんが、仏教と混在しながらその思想が日本に伝えられました。
その結果、仏教や神道など、日本の信仰にも影響を与えました。この見解は学界でも広く受け入れられています。
久米の仙人の伝説
久米の仙人は、欽明天皇の時代に、金剛山麓の葛城の里で生まれたと伝えられています。
彼は吉野山麓の龍門ヶ獄(りゅうもんがたけ)で神通飛行術を習得し、空中を自由に飛行できるようになったとされており、百数十年もの間、久米寺に住んでいたといわれています。
久米の仙人には多くの逸話がありますが、その中でも最もよく知られている逸話は、大変ユーモラスです。
仙人は、神通力を駆使して空中を飛び回っていた。
そんなある日、川で洗濯をしている美しい女性を見かけた。そして、その女性のふくらはぎに目を奪われてしまった。
その結果、仙人は神通力を失い、墜落してしまった。
というお話です。
また、聖武天皇が東大寺に大仏殿を建立する際、久米の仙人は勅命を受け、不思議な仙術を用いて吉野山や各地にある大木や大石を、三日三夜の内に大仏殿境内まで飛ばして集めたといいます。
この仙術のおかげで、大仏殿の建立は迅速に成し遂げられたと伝えられています。
聖武天皇はこの功績に深く感銘を受け、久米の仙人に30町歩の免田を与えたとされ、この伝説は『今昔物語』にも記載されています。
久米の仙人の伝説には、前述した2つの逸話が結びついたものもあります。
久米の仙人は、目がくらんで墜落した美しい女性と結婚し、普通の人間として暮らしていました。大仏殿の建立の際には夫役として材木の運搬に従事していましたが、彼は周囲から相変わらず「仙人」と呼ばれていたのです。
これを聞きつけた役人が「仙人ならば神通力で材木を運べるだろう」と持ちかけました。
これを受けて、神通力を失っていた久米の仙人は七日七夜の修行を行い、8日目の朝に神通力を復活させ、材木を吉野などから浮遊させて東大寺の大仏殿建設地に運んだのでした。
この伝承は『七大寺巡礼私記』や『和州久米寺流記』に記載されています。
最後に
久米の仙人の伝説は、もちろんフィクションです。
しかし、久米寺や久米の仙人について知ることで、厩戸皇子の時代から聖武天皇の奈良時代にかけての史実が交錯し、伝説が生まれた背景が浮かび上がってきます。
久米寺は、神武天皇を祀る橿原神宮のすぐ近くにあります。
橿原神宮に参拝される際には、ぜひ今回紹介した久米寺にも足を運んでみてください。
参考 :
・国立研究開発機構 文化の交差点12-10 「日本の道教について」
・橿原市HP「久米寺」
・西国四十九薬師霊場会HP「久米寺」
文 / 草の実堂編集部
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