大正&昭和

『水俣病と闘った作家』石牟礼道子 〜文学で闘った水俣病闘争のジャンヌ・ダルクの生涯

水俣病患者に寄り添い、その苦悩を文学として昇華させた作家・石牟礼道子(いしむれ みちこ)。

彼女は、恵み豊かな熊本県の不知火の海のほとりで育った。

しかし後年、この海で生きる人々は、化学肥料メーカー・新日本窒素肥料(のちのチッソ)による工場排水によって深刻な被害を受けることになる。
有機水銀を含んだ排水は、海の生態系と漁民たちの暮らしを破壊し、やがて「水俣病」と呼ばれる未曾有の公害病を引き起こした。

その後彼女は、水俣病に苦しむ人々の魂の訴えを言葉として紡ぎ、名著『苦海浄土 わが水俣病』を世に送り出す。
それは単なるルポルタージュではなく、詩情と祈りを帯びた魂の記録であり、日本文学史に残る衝撃作として大きな反響を呼んだ。

石牟礼道子はどのように生き、なぜ書き続けたのか。その足跡をたどっていきたい。

画像 : 朝日新聞社『朝日ジャーナル』第9巻54号(1967)より石牟礼道子 public domain

心優しい両親のもとで育った、感受性の強い子

石牟礼道子は、昭和2年(1927)3月、熊本県天草郡(現・天草市)に生まれた。

父・白石亀太郎、母・吉田ハルノの長女としてこの世に生を受ける。母方の祖父は石工の棟梁で、婿養子に入った父・亀太郎もまた、その技を支える職人であった。

3歳のとき、一家は水俣町栄町へ移り住む。家の近くには、生活に困窮し身を売られた若い娘たちが働く遊郭があり、幼い道子は、そこで暮らす少女たちからまるで妹のようにかわいがられた。

当時、遊郭の女性たちは町の人々から蔑視の目を向けられていたが、道子の家族は彼女たちを「親思いで心根の優しい、境遇に泣く娘たち」として温かく見守っていた。

道子の父は弱い立場の人たちに優しい性格であり、母もおだやかで、自然に親しみの心を持つ人であった。

あるとき、道子を可愛がっていた16歳の遊女が刺殺される事件が起こる。遺体の解剖には誰も立ち会おうとしなかったが、父・亀太郎は静かにその場に立ち会ったという。

また、母方の祖母は精神の病を抱えながらも家族から敬われ、「おもかさま」と呼ばれ大切にされていた。道子は祖母の話し相手をつとめ、ともに過ごす時間の中で心を通わせていった。

小学校に入学し、文字を覚えた道子は、言葉が目の前の世界を映し出し、形づくる力を持つことに感激した。それ以来、文字への探求心が深まり、文字を書くこと、読むことに夢中になっていった。

しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。

道子が8歳のとき、祖父の事業が失敗し、一家は経済的に没落。栄町の家は差し押さえられ、水俣川河口にある「荒神(あらがみ)」(通称・とんとん村)へと移り住むこととなる。

画像 : 道子イメージ 草の実堂作成(AI)

しかし、新しい住まいの目の前には渚が広がり、波間にきらめく魚や草、空気に漂う精霊の気配までが、道子の目には映るように感じられた。

道子は、すでに幼い頃から、言葉にならぬものを感じとる心を備えていた。

生きづらい世の中で「死」を求めるも失敗

13歳の頃、道子は自らの感情を表現する手段として歌を詠み始めた。

やがて彼女の才能は周囲にも認められ、16歳になると、学業成績が優秀だったことから教師の勧めで小学校の代用教員となる。

しかし、当時は太平洋戦争の最中であり、教育現場には「お国のために命を捧げよ」といった軍国主義的な思想が強く浸透していた。

画像 : 代用教師をしていたころ(1943年)右から2番目が石牟礼道子 public domain

教員として、国に尽くすよう子どもたちを指導しなければならない矛盾と重圧は、彼女にとって耐えがたい苦痛であった。

やがて道子は、生きることそのものに息苦しさを覚えるようになっていく。

20歳のとき、水俣の旧家・石牟礼家の次男である弘と結婚したが、そこに恋愛感情はなかった。家族の事情を思い、ある種の責任感から選んだ結婚であった。

そして結婚からわずか4か月後、道子は自殺を図る。

幸い命は助かったものの、感受性の強い彼女は、この世を生きること自体に深い絶望を感じていた。

そんな彼女を現世につなぎ止めたのが、翌年に生まれた長男の存在だった。道子は、この子を守り育てることで、生きる意味を見いだしていくことになる。

水俣病

道子が26歳になった昭和28年(1953)ごろから、水俣湾周辺の漁村では奇妙な異変が見られるようになった。

多くの猫が、ふらついた足取りで石垣に頭をぶつけ、逆立ちのような姿勢で暴れたのち、海へと落ちて死んでいくのだ。

画像 : 猫踊り病イメージ 草の実堂作成(AI)

人々はこの現象を「猫踊り病」と呼び、不気味さと恐怖を募らせた。

しかし、やがて人間にも同様の症状が現れるようになる。
手足のしびれや麻痺、言語障害や運動障害などが次々と報告され、原因不明の「奇病」として地域を覆っていった。

昭和31年(1956)、ついにこの病が公式に確認され、「水俣病」と名付けられる。

その後の調査によって、この奇病の原因は港に隣接する化学肥料メーカー・新日本窒素肥料(のちのチッソ)の工場排水に含まれていた有機水銀であることが明らかとなる。

企業の利益を最優先した結果、未処理のまま海へと放出された排水は、魚介類に有機水銀を蓄積させ、それを常食としていた漁民や、その家族の体に深刻な被害をもたらしたのだ。

この災厄は、やがて道子の人生を大きく変えていくことになる。

水俣病の現実にうちのめされるも、患者の『魂の声』を言葉にする

画像 : 谷川雁 public domain

昭和33年(1958)、道子は詩人・谷川雁らが主宰する文学グループ「サークル村」に参加し、本格的な文学活動を開始した。

そしてサークル村の会員で水俣市職員である赤崎覚から、熊本大学研究班による水俣病の詳細な報告書を見せられた道子は、衝撃を受ける。

そこに記されていたのは、かつて道子が親しんだ土地に暮らす人々が、計り知れない苦しみに晒されている現実だった。
あまりの内容に道子は深いショックを受け、しばらく寝込んでしまったという。

だが、やがて彼女は「書いて思いを吐き出さないことには前に進めない」と感じるようになり、水俣病患者のもとを一人ひとり訪ね歩き、その言葉や沈黙を、地元の言葉で丁寧に記録していく。
そこには、医学や報道が切り取ることのできなかった「魂の声」があった。

かつて夫とともに舟に乗り、漁をして暮らしていた40代の女性患者は、全身の痙攣に苦しみながらも、「海の上は本当によかった」と、言葉をもつれさせながら力を振り絞って語った。

また、祖父母に育てられていた9歳の少年は、母の胎内にいた頃、すでに水俣病に感染していた。
話すことも排泄も一人ではできない体であったが、家族に心配をかけまいと、いつも仏さまのように微笑みを浮かべていたという。

画像 : 水俣病の位置-地図 public domain

水俣病は感染症ではないにもかかわらず、患者が家の前を通っただけで消毒剤をまく者もいた。
患者たちは「病気」というだけで、地域社会から差別や忌避の対象となっていたのだ。

道子は、病院で亡くなった患者の遺体が解剖される場にも立ち会い、その最期までを見届けた。

昭和43年(1968)、道子は元小学校教頭・日吉フミコを会長として、水俣病患者を支援する「水俣病対策市民会議」(のちの水俣病市民会議)の設立に尽力する。

そして翌年の昭和44年(1969)1月、41歳の道子は、患者や家族たちの語った声、あるいは語り得なかった魂の叫びを記録した書『苦海浄土 わが水俣病』を刊行した。

この作品は社会に大きな衝撃を与え、熊日文学賞や第1回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれることとなった。

しかし道子は、「水俣病患者を描いた作品で賞を受けるのは忍びない」として、いずれの賞も辞退している。

水俣病に苦しむ人たちに寄り添い、命の尊厳を見つめる

『苦海浄土』の刊行後、道子は市民会議による支援だけでは不十分だと感じていた。

より組織的かつ継続的に患者を支えるための仕組みが必要だと考えた彼女は、信頼する編集者・渡辺京二に相談を持ちかけた。その結果、渡辺の呼びかけにより「水俣病を告発する会」が結成される。

同年6月、水俣病患者29世帯が加害企業であるチッソを相手に第一次訴訟を提起した。
しかし、チッソは水俣の地域経済の中心的存在であり、被害者たちに同情的な声ばかりではなかった。

「会社を潰すのか。それは水俣市が潰れることだ。市民4万5千人の生活と患者百人余りの命と、どちらが重いのか」という非情な声も上がり、患者とその家族は二重三重の苦しみにさらされた。

昭和45年(1970)、道子は上京し、告発する会のメンバーや支援者とともに厚生省(現・厚生労働省)前でデモを行った。

画像 : 1958年から1964年まで新日本窒素肥料(現・チッソ)社長を務めた吉岡喜一 public domain

その後も、チッソ東京本社に赴いて社長と直接交渉を行う患者を支援し、座り込み運動を展開した。

この抗議活動は1年半以上に及び、水俣病闘争の象徴となった『怨』の黒い旗や、支援者が裁判所で身につけた『死民』と書かれたゼッケンは、いずれも石牟礼の発案によるものであった。

こうした活動から、彼女は「水俣病闘争のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになる。

昭和48年(1973)3月、熊本地裁は患者側勝訴の判決を下し、チッソに対して9億円を超える補償金の支払いを命じた。
だが、道子は「補償金は勝ち取ったが、本質はつぶされている」と語った。
彼女が重視していたのは金銭の補償ではなく、企業側との「魂の対話」であった。しかし、裁判という制度の中ではそれが果たされることはなかった。

やがて訴訟は、法に基づいた損害賠償の枠組みに回収されていった。

道子はその後も、水俣病患者に寄り添いながら『苦海浄土』の執筆を続け、2004年に三部作として完結させた。
また、水俣病を題材にした絵本や童話など、多くの作品を世に送り出した。
彼女は生涯を通じて、人間の痛みに寄り添い、命の尊厳を見つめ続けた作家であった。

平成30年(2018)、パーキンソン病を患っていた道子は、90歳でこの世を去った。

水俣の地には「高漂浪き(たかざれき)」という言葉がある。

「漂浪く(されく)」とは方言で「歩く」を意味し、「高漂浪き」とは「どこからか魂の呼びかけが聞こえた時、その場所へと身も心も導かれてしまうこと」だという。

石牟礼道子は、自他共に認める本物の「高漂浪き」であった。

その作品は今なお、読む者に「命の尊厳とは何か」を問いかけ続けている。

参考 :
石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社
小杉みのり『時代をきりひらいた日本の女たち』岩崎書店
米本浩二『評伝 石牟礼道子』新潮社
文 / 草の実堂編集部

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