第二次世界大戦の終戦間際、ソビエト連邦(ソ連)が北海道に侵攻する計画を立てていたという話は、歴史の裏舞台として今も興味を引く。
本当にそんな計画が存在していたのだろうか。
史実を紐解くと、ソ連の野心と日本の危機が交錯するドラマが浮かび上がる。
計画はフィクションではなかった

画像 : プーチン大統領 public domain
1945年、第二次世界大戦の終戦直前、ソ連は日本に対する軍事行動を計画していた。
これは、ヤルタ会談(1945年2月)やポツダム宣言(同年7月)での連合国の取り決めに基づく。ヤルタ会談では、ソ連が対日参戦を約束し、千島列島や南樺太の領有を認められていた。
実際に、ソ連は1945年8月8日に日ソ中立条約を破棄し、満州や南樺太に侵攻を開始。8月15日の日本の降伏後も、千島列島の占領を続けた。
ここで注目されるのが、ソ連の「北海道侵攻計画」だ。
歴史資料によると、ソ連軍参謀本部は1945年8月に「北海道北部占領作戦」を具体的に検討していた。この計画では、樺太から北海道北部(宗谷海峡周辺)を占領し、戦略的拠点を確保する狙いがあった。
ソ連は、北海道を占領することで、戦後の日本分割統治における発言力を強め、太平洋への進出を有利に進めようとした。具体的には、8月末から9月初旬にかけて、ソ連軍の歩兵師団や海軍部隊を動員し、稚内や釧路への上陸を計画していた。
しかし、この計画は実行に移されなかった。理由は複数ある。
まず、ソ連の軍事資源は、満州や千島列島での戦闘で既に逼迫していた。北海道への上陸作戦には、海軍力と補給線の確保が必要だったが、ソ連海軍は米国の太平洋艦隊に対抗するほどの力を持たなかった。
また、米国が北海道を含む日本本土の占領を強く主張し、ソ連の介入を牽制したことも大きい。トルーマン大統領は、ソ連が北海道に進出すれば日本分割の複雑化を招くと警戒していた。
北海道の公用語がロシア語だった可能性も

画像 : 侵攻計画図。ソ連は留萌市への上陸と、留萌市と釧路市を結ぶ線の北側の占領を計画した。 wiki c Riverhugger
さらに、日本の降伏が予想以上に早かったことも影響している。
8月15日の玉音放送で日本が降伏を表明すると、ソ連は新たな軍事行動の正当性を失った。8月18日から22日にかけて千島列島を占領したソ連だが、北海道への侵攻はリスクが高すぎると判断されたのだ。
結局、ソ連は千島列島と南樺太に留まり、北海道への上陸は実現しなかったのである。
戦後の冷戦時代、この「幻の侵攻計画」は日米同盟の重要性を強調する物語として語られることがあった。
日本側では、ソ連の脅威を背景に、米軍の駐留や自衛隊の強化が正当化された。一方で、ソ連の視点では、北海道侵攻は戦後の勢力拡大を狙った一つの選択肢に過ぎなかった。
近年、ロシアのウクライナ侵攻(2022年~)を背景に、ソ連の歴史的野心が再注目されているが、当時の北海道侵攻計画は、実行可能性よりも政治的駆け引きの側面が強かったと言える。
この歴史を知ると、北海道の地政学的な重要性が改めて浮かび上がる。
ソ連の計画は未遂に終わったが、もし実行されていたら、日本の戦後史は大きく変わっていたかもしれない。
参考 : 『The Hokkaido Myth』他
文 / エックスレバン 校正 / 草の実堂編集部
この記事へのコメントはありません。