
画像:愛宕神社の社の隣に位置する祠、夜刀神(やとのかみ)が祀られる夜刀神社。 wiki c 小石川人晃
現存する世界最古の国とされる日本には、古事記に登場する神々以外にも様々な神が各地の神社で祀られている。
夜刀神(やとのかみ、やつのかみ)もまた古事記には登場しない、土着の神のうちの1柱だ。
夜刀神が登場するのは、『常陸国風土記』の行方郡の項である。
つまり夜刀神は、常陸国すなわち現在の茨城県で、古くから信仰されていた神だ。
夜刀神は「その姿を一目見ただけで、一族郎党滅亡してしまう」と伝えられる祟り神でありながら、田畑や水源を守護する神として信仰され、現在も行方市の愛宕神社境内に厳かに祀られている。
今回は、茨城に伝わる謎多き祟り神、夜刀神について触れていく。
常陸国の人々に恐れられた蛇神・夜刀神

画像:夜刀神イメージ 筆者作成
『常陸国風土記』において夜刀神が登場するのは、行方郡(なめがたぐん)の項である。
古来より、行方郡の群家(役所)周辺に広がる原野に群生していた夜刀神は、頭に角を生やした蛇の姿をしており、その姿を一目でも見た者は一族もろとも滅んでしまうといわれ、人々に恐れられていた。
第26代継体天皇の御代、つまりは6世紀前期頃、まだ行方が郡として成立する以前のことだ。
行方の在地豪族である箭括麻多智(やはず の またち)という人物が、行方郡役所の西に広がっていた芦原を新田として開墾することにした。
しかし、元々その地に棲息していた夜刀神はそれを受け入れず、大勢の仲間たちと群れを成して開墾を妨害した。
夜刀神の所業に腹を立てた麻多智は武装して、開墾の邪魔をしてくる夜刀神たちを次々と打ち殺して山へと追いやった。
その後、人の地と神の地とを明確に区切るために、山の入り口にあった境界となる堀に「標の梲(しるしのつえ)」を突き立てた。
そして夜刀神に対して、その杖より上を神の土地とすることを許し、杖より下を人の田とすることを宣言した。
さらに麻多智は、夜刀神が恨み祟ることのないように社を創建して水神として祀ることを誓い、自ら神の祝(ほうり)として仕えて祭祀を行うようになったという。
その後『常陸国風土記』の編纂時期まで、麻多智の子孫が代々祀りを行っていたとされている。
壬生連麿と夜刀神の争い

画像:愛宕神社 (行方市) 天龍の御手洗 wiki c Saigen Jiro
箭括麻多智が、人と夜刀神の間に境界を設けてから100年以上が経った頃のこと。
第36代孝徳天皇の御代になると、行方郡を建群した茨城国造である壬生連麿(みずのむらじまろ)という人物が、かつて箭括麻多智が開墾した谷を占有して、夜刀神が棲む池に堤防を築こうとした。
しかし、その池を棲み処としていた夜刀神たちは築堤を阻むために、池のほとりに立つ椎の木の樹上に集まり、そこに留まろうとした。
壬生連麿は一向に動こうとしない夜刀神に対して「人々を活かすために池を修築するというのに、風化(天皇の教化)に従わないとはどのような神か」と大声で怒鳴り、修築工事のために集まった人々に夜刀神を恐れることなく皆殺しにするよう命じた。
それを聞いた夜刀神たちはたちまち逃げ去り、ほとりに椎の木が立っていたその池には「椎井池」という名がつけられたという。
夜刀神は『常陸国風土記』の中で、継体天皇の時代に退治されて追い払われたものの、それでも水神として祀られるぐらいには神としての権威を保っていた。
しかし、孝徳天皇の時代にはもはや神格を無視されて「人の邪魔をするなら駆逐されて然るべき」と、ただの害獣のように扱われている。
これは、冠位を持つ律令官人である壬生連麿にとって、神と呼ぶにふさわしいのは天照大御神であり、その子孫である天皇の意に背く夜刀神は、もはや神ではなく、ただの蛇として人の手で制圧されるべき存在と見なされたのだと考えられる。
「やと」「やつ」は関東地方の方言で「谷」を意味する言葉であり、夜刀神は谷を棲み処とする蛇に象徴される、開拓以前の自然の脅威そのものであった。
『常陸国風土記』に描かれた夜刀神の物語からは、国の仕組みが整い、治水をはじめとする技術が発展する中で、かつて恐れられていた自然の神が、しだいにその権威を失っていく姿がうかがえる。
夜刀神を祀る神社

画像:愛宕神社(行方市)の境内 wiki c 小石川人晃
このように天皇を中心とする律令制のもとでは、水神としての権威を失ってしまった夜刀神だが、人々からの信仰を完全に失ったわけではない。
茨城県行方市玉造甲字天竜に鎮座する愛宕神社は、麻多智が夜刀神を祀った社を発祥とする神社であり、境内にはかつて箭括麻多智が祭祀した社を発祥とする夜刀神社がある。
行方の愛宕神社は、霞ケ浦の東方の2つの台地の谷間を約2km入った最奥部にある「天龍の御手洗」という清水が湧く泉の、その後ろにある台地の森の中に鎮座している。
愛宕神社の鎮座地である霞ケ浦周辺の谷間の湿地には、今でもマムシなどの毒蛇を含む蛇類が多くいる。
伝承によれば「天龍の御手洗」こそが、かつて夜刀神の棲み処となっていた「椎井池」であるという。
かつては、現在の鎮座地より約200m南方に夜刀神社が鎮座していたとされるが、室町時代に第13代玉造城主の玉造憲幹が火伏の神である愛宕神を合祀して、現社地に遷座した。
かつて夜刀神社が鎮座していたとされる字滝の入には、戦前までは鬱蒼とした鎮守の杜があったが、戦後には古木が伐採されて中に祀られていた祠も壊されてしまい、昭和49年に「夜刀神」の碑が建立されるまでは荒れ果てた藪であったといわれる。
かつては人の手による制御が不可能だった自然の脅威は、夜刀神などの土地の神として祀られたが、科学や技術の進化に伴い徐々に脅威とみなされなくなり、神としての権威を失って人々から忘れ去られていった。
しかしどれだけ科学が発展しようとも、天災や悪天候による脅威を防ぎきることはできない。恐れを失い油断すれば、自然に命を脅かされることは現代でも十分にあり得るのだ。
歴史的資料に見られる古代の人々の信仰は、私たちが忘れてしまった自然を敬い恐れる心を、今こそ思い起こさせてくれるのではないだろうか。
さらに巳年である2025年は、近年の神社ブームも相まって、忘れられつつあった蛇神・夜刀神が、再び人々の関心を集めている。
夜刀神は粗末に扱えば水害をもたらす祟り神とされながらも、豊穣と繁栄をもたらす農耕神と考えられているのだ。
現在、夜刀神社の奉仕は茨城県小美玉市小川古城に鎮座する素鵞神社の宮司が兼任しており、素鵞神社では夜刀神社参拝者に対して2025年いっぱいまで、夜刀神社巳年特別御朱印を頒布している。
素鵞神社
公式HP : https://www.sogajinja.com
興味を持たれた方はぜひ、夜刀神社を参拝してみてはいかがだろうか。
もし参拝の道中に蛇に遭遇した時は、むやみに追い払ったり害を与えたりすることなく、恐れ多き神の使いとして丁重に距離を取り見守ってほしい。
参考 :
赤坂 憲雄 (著)『境界の発生』
秋本 吉徳 (著)『常陸国風土記 全訳注』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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