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明治維新で社号や祭神が変更された
「八坂神社」「金刀比羅宮」「談山神社」。いずれも全国的に知られ、多くの参拝者から崇敬を集める有名な神社である。
しかし、これらの社号は明治維新の際に新たに付けられ、さらには祭神までも変更されていたという事実は、あまり知られていないだろう。
実際には、これら三社に限らず、全国各地で古くから伝わる社号や祭神が、明治政府の宗教政策の方針によって改められた事例は多い。
では、なぜ明治政府はこのような強硬な政策を実施したのだろうか。
日本固有の神道より上の立場とみなされた仏教

画像 : 明治天皇 public domain
明治維新を迎えた新政府は、明治天皇の治世を初代・神武天皇の創業になぞらえ、その理念を国家統治の基盤に据えた。
そして、祭祀と政治が一体化した神権政治が行われていたとされる神武天皇の時代を再現するために「王政復興の大号令」を布告した。
つまり、神道を天皇崇拝に則った国教とする必要があったのだ。
しかし、そこには日本独特の宗教観である「神仏習合」という大きな問題が立ちはだかった。
「神仏習合」とは、簡単に言えば日本固有の宗教であった「神道」に、大陸から伝来した「仏教」が融合し、一つの信仰体系として再構成された宗教現象をいう。

画像:素戔嗚尊(すさのおのみこと)public domain
「神仏習合」では、日本の神々は仏や菩薩が姿を変えて現れたものであるとされ、神と仏は本来一体であるとみなされた。
しかし、なぜこれが問題なのかというと、いつのまにか日本固有の神々が、仏の格下として扱われるようになっていたからである。
そのため「神身離脱(しんしんりだつ)」と呼ばれる観念が生まれ、神々は自らの立場を嘆き、仏法に帰依して三宝に従いたいと願う存在、すなわち仏法を守護する善神として説明された。
これが神宮寺の成立につながった。

画像:京都・泉涌寺の月輪陵。歴代天皇の仏教式御陵 wiki©663highland
つまり、江戸時代末期まで、寺院と神社が結びつき、同じ境内や隣接する敷地に寺社が一体となって存在しているのが、ごく当たり前の光景だったのだ。
それどころか、神道の「家元」ともいえる天皇家までもが仏教を重んじており、京都御所には、歴代天皇の位牌を納める「御黒戸(おくろど)」と呼ばれる仏堂があり、歴代天皇はそこで仏教式に供養されていたのである。
神権政治を行うため、奈良時代以降の神仏習合を否定
明治維新政府は、明治天皇による神権政治を実現するため、「神仏習合」を完全に否定する必要があった。
そのため、従来の社号や祭神を改めるという強硬な方針が打ち出された。
1868(明治元)年3月、神社から仏教的要素を排除する「神仏分離」政策が開始され、同月28日には「神仏判然令(神仏分離令)」が発せられた。
これにより、神名に仏教的用語を含む神社の祭神を変更すること、また仏像を神体としていた神社から仏像を取り除くこと、などが命じられた。

画像:江島神社裸弁財天(写真:江島神社)
この政府主導の宗教改革は、寺院の破壊や仏像の廃棄といった、前代未聞の「廃仏毀釈」の嵐を巻き起こした。
さらに、国家によって保護される立場にあった神社側にも大きな混乱をもたらすこととなった。
奈良時代以降、「神仏習合」が当然のあり方とされてきたにもかかわらず、わずかでも仏教的要素を含む神社は、明治政府の方針により社号や祭神の変更を余儀なくされ、その数は多岐にわたったのである。
では、明治政府によって社号や祭神を改めさせられた代表的な神社として、「八坂神社」(京都)、「江島神社」(神奈川)、「都久夫須麻神社」(滋賀)の三社を紹介しよう。
牛頭天王から素戔嗚尊に祭神が変わった「八坂神社」
祇園祭で有名な京都の「八坂神社」は、幕末までは「祇園感神院」や「祇園社(祇園神社)」と称していた。
しかし、「祇園」という名称が仏教に由来する「祇園精舎」に因むものであったため、八坂郷に鎮座する神社であることにちなみ、明治維新の際に「八坂神社」と改称された。

画像:八坂神社(撮影:高野晃彰)
また、同社の本来の祭神であった「牛頭天王」は仏教系の尊格であったことから、同じく疫病除けの神として信仰されていた「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が表に出され、現在では素戔嗚尊が祭神とされている。
同社のホームページには、
「平安京遷都以前より鎮座する古社で、『祇園さん』と呼ばれ親しまれております。主祭神の素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、あらゆる災いを祓う神様として信仰されており、境内には数多くの神様をお祀りしております」
と記されている。
弁財天から宗像三女神へ「江島神社」「都久夫須麻神社」
湘南の人気スポット・江の島に鎮座する「江島神社」は、江戸時代には「与願寺」と称する神仏習合の真言宗寺院であった。
当時の本尊かつ御神体は、日本三大弁財天の一つに数えられる「江の島弁財天」であり、江の島詣の参詣者で大いに賑わっていたという。
しかし「神仏分離令」により、明治政府から祭神を宗像三女神の「田心姫神(タゴリヒメ)・湍津姫神(タギツヒメ)・市杵島姫神(イチキシマヒメ)」に改められた。

画像:江島神社奥津宮 (写真:江島神社)
現在、江島神社では、奥津宮に多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、中津宮に市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、辺津宮に田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をそれぞれ祀っている。
弁財天が水の神格を持つことから、同じく海を司る宗像三女神が祭神として擬せられたと考えられる。
また、同じく日本三大弁財天の一つ「近江の竹生島弁天」も「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」と改称させられ、祭神も宗像三女神を祭神と定められた。
このとき、弁財天像は観音堂へと移され、寺院としては「竹生島宝厳寺」として独立することとなった。
このため、宝厳寺のホームページには「神亀元年、聖武天皇の夢枕に天照皇大神が立ち、『江州の湖中に小島あり。その島は弁才天の聖地であるゆえ、寺を建立せよ。そうすれば国家は泰平、五穀は豊穣となり、万民は楽しく暮らせるであろう』とのお告げがあった」と、同寺の縁起が記されている。

画像:厳島神社(撮影:高野晃彰)
なお、もう一つの三大弁財天「厳島神社」では、かつて『記紀』に登場しない「伊都岐島大明神(いつきしま だいみょうじん)」という神が祀られていたとされる。
しかし、戦国時代ごろに祭神が宗像三女神へと改められたとも言われており、「江島神社」や「都久夫須麻神社」もこの例にならった可能性は否定できない。
このほかにも、明治に入って社号や祭神が変更された代表的な神社には、以下のような例がある。
●白山比咩神社(石川県)
旧社名:白山本宮
旧祭神:白山妙理権現
変更後の祭神:菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)

画像:白山比咩神社(写真:白山比咩神社)
●鵜戸神宮(宮崎県)
旧社名:鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺
旧祭神:鵜戸山権現
変更後の祭神:日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)

画像:鵜戸神宮 wiki©そらみみ
●談山神社(奈良県)
旧社名:妙楽寺
旧祭神:談山大明神
変更後の祭神:藤原鎌足

画像:談山神社 wiki©663highland
●金刀比羅宮(香川県)
旧社名:金毘羅大権現
旧祭神:金毘羅大権現
変更後の祭神:大物主命(おおものぬしのみこと)、崇徳天皇(すとくてんのう)

画像:金刀比羅宮 wiki©Toto-tarou
以上、著名な四社を挙げたが、他にも枚挙にいとまがないため、このあたりでとどめておこう。
社号&祭神変更は、国家的イデオロギーか
「神仏判然令(神仏分離令)」から160年余、そして戦後80年を経た現在。
神社によっては、明治期に変更された社号や祭神をそのまま維持しているところもあれば、祭神を元に戻したり、元の祭神と変更後の祭神を併せて祀るところもある。
歴史的に確かなのは、明治新政府が社号や祭神の変更を通じて、『古事記』『日本書紀』『延喜式神名帳』に記された神々を、新たな信仰対象として全国の神社に受け入れさせたことである。
その結果、地域ごとに独自の由緒や歴史を背負って祀られてきた神々は、日本神話に基づく祭神へと次第に置き換えられていった。

画像:伊邪那岐命と伊邪那美命 public domain
1889(明治23)年、日本はアジアで初めて立憲君主制を採用し、大日本帝国憲法を発布した。
欧米列強に追いつくため、「殖産興業」「富国強兵」をスローガンに掲げた日本は、その後、日清戦争・日露戦争・満州事変・日中戦争、そして太平洋戦争へと進み、わずか60年足らずの間に、日本とアジア諸国を合わせて約2,300万人もの命が失われた。
その背景には、国民統合と忠誠心を培うための制度や文化が、明治期から一貫して構築され続けてきたという事実がある。戦後に政治体制は大きく変わったものの、その価値観や象徴の一部は形を変えて今も受け継がれている。
こうした視点で見ると、明治政府が全国の神社に対して行った社号や祭神の変更も、単なる宗教改革ではなく、国民意識を方向づけるイデオロギー施策の一環としても位置付けられるだろう。
※参考文献
鵜飼秀徳著 『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』文春新書刊
安丸良夫著 『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』 岩波新書刊
文・写真 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
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