三國志

『三国志』劉備も恐れた魏の名将・張郃とは?その知られざる実力「魏の五将軍」

天下人候補を渡り歩いた魏の名将

画像 : 曹操孟徳 public domain

三国志最大の勢力である魏には、人材コレクターとして名高い曹操のもとに、数多くの名将が集まった。

魏の名将といえば、まず張遼(ちょうりょう)を思い浮かべる人も多いだろう。

しかし、その張遼と並び、曹魏を支えたもう一人の重要な将が、張郃(ちょうこう)である。

韓馥・袁紹・曹操と主君を変え、天下人に近い人物たちのもとを渡り歩いた張郃の生涯は、まさに「天下人請負人」と呼ぶにふさわしい。

今回は、魏の名将として今も語り継がれる、張郃の生涯を紹介する。

韓馥から袁紹へ

画像 : 清代の三国志演義で描かれた張郃 public domain

張郃(ちょうこう)は、字を雋乂(しゅんがい)といい、河間郡鄚県の人である。

袁紹や曹操といった強大な勢力を渡り歩いたことで知られるが、最初の主君は韓馥(かんふく)という人物だった。

黄巾の乱の募兵に応じ、韓馥の配下として軍司馬を務めたとされるが、この時期の張郃については正史に記録が少ない。

韓馥は反董卓連合にも参加していたため、張郃も連合軍に従軍した可能性は高いが、呂布や張遼、高順といった名将たちとの交戦記録は残されていない。

画像 : 清代に描かれた韓馥の絵 public domain

当時、韓馥は冀州牧であったものの、同盟関係にあった袁紹の影響力は大きく、事実上、張郃も袁紹の統制下にあったと考えられる。

やがて袁紹との権力争いに敗れた韓馥は自害し、その配下は袁紹軍に吸収された。
張郃もこのとき、正式に袁紹軍へ編入されることになる。

この時期、袁紹軍に加わったのは張郃だけではなく、軍師の沮授(そじゅ)や麴義(きくぎ)といった、後に袁紹軍の主力として活躍する大物も含まれていた。

袁紹配下時代

画像 : 袁紹 Public Domain

当時、天下人最有力候補と目された袁紹のもとで、武将として活動することになった張郃だが、袁紹軍時代の活躍を示す記述は多くない。

公孫瓚との長期戦では功績を挙げ、寧国中郎将に昇進したことが『正史 三國志』に記されているものの、名のある武将を破ったり、主要な城を攻略したといった記録は見られない。

後の活躍ぶりを考えれば、優秀な将だった可能性は高いが、当時の袁紹軍における張郃の序列は明らかではない。

張郃についての詳しい記録が現れるのは、三国志前半における最大の戦い、袁紹vs曹操の「官渡の戦い」である。

画像 : 官渡の戦い直前の勢力図 ※草の実堂作成

官渡の戦いでは、袁紹軍はおよそ11万の大軍を擁し、約4万の兵力しかなかった曹操軍を圧倒し、開戦当初は戦況を有利に進めていた。

しかし、袁紹陣営から離反した許攸(きょゆう)の密告により、袁紹軍の兵糧庫が烏巣(うそう)にあり、警備が手薄であることが曹操に伝わる。

曹操は、自ら精鋭を率いて烏巣を急襲した。

烏巣攻撃の報を受けた袁紹陣営では、対応を巡って意見が分かれた。

袁紹軍の謀士である郭図(かくと)は「曹操不在の本陣を攻撃すべき」と主張し、張郃は「本陣は守りが堅固で落とせない。すぐに烏巣へ援軍を送り、守将の淳于瓊(じゅんうけい)を救うべきだ」と進言した。

郃説紹曰:「曹公兵精,往必破瓊等;瓊等破,則將軍事去矣,宜急引兵救之。」
郭圖曰:「郃計非也。不如攻其本營,勢必還,此為不救而自解也。」
郃曰:「曹公營固,攻之必不拔,若瓊等見禽,吾屬盡為虜矣。」

【意訳】
張郃は袁紹に「曹操軍は精鋭で、烏巣は必ず破られます。もし淳于瓊らが敗れれば、将軍の軍は危機に陥ります。すぐに兵を引き、救援すべきです」と進言した。
これに対して郭図は「張郃の計は誤りです。本営を攻めれば曹操は必ず引き返すでしょう。烏巣を救わずとも問題は解決します」と主張した。
張郃はさらに「曹操の本営は固く、攻めても落ちません。もし淳于瓊らが捕らえられれば、我々は皆虜になるでしょう」と反論した。

引用『三國志』魏書・張楽于張徐伝

結果的に郭図の策は失敗に終わったが、曹操不在の本陣を狙うという発想自体は、必ずしも悪いというわけではなかった。

問題は、袁紹の采配にあった。
袁紹は両者の意見を折衷し、軽騎兵を烏巣救援に向かわせる一方で、張郃には重装歩兵での曹操本陣の急襲を命じたのである。

しかし、兵力を分散したこの采配は裏目に出た。

張郃に与えられた兵力では曹操の本陣を攻め落とすには不十分で、烏巣は守り切れず陥落。

画像 : 官渡の戦い烏巣急襲 草の実堂作成(AI)

烏巣の兵糧庫を焼き払われた袁紹軍は大混乱となり、総崩れとなった。

このとき、郭図は自らの策の失敗を恥じ、張郃が敗北を喜んでいると袁紹に讒言した。
立場を危うくした張郃は、高覧とともに曹洪のもとへ投降し、曹操軍に加わった。

結果論ではあるが、袁紹が張郃の進言を全面的に採用し、兵を分散させずに烏巣救援を命じていれば、兵糧を守りきり曹操軍を撤退させられた可能性は大いにある。

袁紹軍における張郃の詳細な記録は少ないが、この官渡の戦いこそが、張郃が後世に名を残すきっかけとなった戦いであった。

魏の名将へ

画像 : 楽進・張郃・王双を描いた挿絵 public domain

官渡の戦い後、曹操に降伏した張郃は、その軍事的才能を高く評価され、偏将軍に任命されて厚遇を受けた。
以後、鮮卑討伐や馬超との戦いなど、重要な局面で常に起用されるようになる。

張郃は、名将を討ち取るなどの華々しい逸話こそ少ないが、鮮卑征討・雍奴攻撃・馬超撃破など着実に戦功を挙げ、平狄将軍へと昇進する。
大軍を率いる総司令官ではなかったものの、要所で必ず動員される存在で、曹操陣営にとって欠かせない武将の一人となった。

215年、馬超を破った後、曹操は漢中攻略を進め、張郃は夏侯淵(かこうえん)の副将として従軍する。

画像 : 夏侯淵 清の時代に描かれた三国志演義の挿絵 public domain

曹操は猪突猛進型の夏侯淵に対し、「将たる者、臆病をも知るべし」と諭し、冷静な張郃を補佐役として付けていた。
夏侯淵の大胆な攻勢と、張郃の冷静な判断は互いに補完し合い、二人は見事なコンビネーションを見せた。

しかし同年、劉備軍の張飛が漢中へ進軍し、両軍は激突する。

50日にも及ぶ長期戦の末、兵力を分散させた隙を突かれ、張郃は張飛に敗れて南鄭へ撤退を余儀なくされた。
(『三國志演義』では、張飛が酒宴を開いていると誤解した張郃が夜襲を仕掛け、返り討ちにあったと脚色されている。)

4年後の219年、漢中をめぐる戦況はさらに激化する。

定軍山の戦いで劉備軍の攻勢に苦戦していた張郃を救うため、夏侯淵は自軍を割いて救援に向かうが、これが隙となり黄忠に討たれてしまったのである。

総大将を失った曹操軍は動揺するも、張郃は夏侯淵の司馬(参謀・副官)だった郭淮(かくわい)らとともに軍をまとめ、被害を最小限に抑えて撤退に成功する。

この戦いで劉備は、張郃の首を取れなかったことを強く悔やんだと『魏略』に記されている。

この逸話からも、張郃が劉備にとって大きな脅威と見なされていたことがうかがえる。

画像 : 黄忠と張郃が戦う場面を描いた挿絵 public domain

死の瞬間まで立ちはだかった蜀への壁

夏侯淵の戦死から関羽、曹操、張飛、劉備と、三国志序盤を彩った英雄たちが次々にこの世を去り、中国は本格的な三国時代へと突入した。

魏の初代皇帝・曹丕(そうひ)が早世したこともあり、張郃は第二代皇帝・曹叡(そうえい)の時代まで、魏の武将として活躍した。

晩年の活躍で特筆すべきは、蜀軍の諸葛亮による北伐戦線での働きである。

第一次北伐(228年)、司馬懿の指揮下にあった張郃は、街亭の戦いで馬謖(ばしょく)を撃破し、蜀軍の侵攻を阻止した。

続く第二次北伐(228〜229年)では、主戦場となった陳倉を救援するよう曹叡に命じられるが、張郃は郝昭(かくしょう)が守る城の堅固さと蜀軍の兵糧不足を指摘。予想通り、蜀軍は兵糧切れにより撤退した。

約45年に及ぶ軍歴を誇る張郃は、戦況を見極める鋭い洞察力を備えており、劉備が警戒した以上の脅威となっていた。

しかし231年、第四次北伐で蜀軍が再び祁山に進出すると、張郃は司馬懿の命で略陽に出陣。

蜀軍が兵糧不足で退却を開始すると、張郃は「退く軍を追うべからず」と進言したが、司馬懿はこれを退け追撃を強行させた。

そして張郃の懸念通り、蜀軍は伏兵を配置しており、張郃は飛来した矢を受けて戦死した。(右膝、右腿など諸説あり)

画像 : 張郃が木門道で蜀軍の伏兵に遭い、矢を受けて戦死する場面を描いた清代の挿絵 public domain

この張郃の死につながった司馬懿の追撃命令については、「撤退には追い込んだものの事実上の負け戦で、司馬懿が蜀軍に勝ち逃げされることを嫌った」とも、「魏で司馬懿以上の軍歴を誇る張郃の存在を疎ましく思っていた」とも言われ、真相は定かではない。

ただ、曹叡は張郃の戦死を深く悲しんだという。

長い軍歴ゆえ敗戦も経験しているが、劉備存命時から蜀軍と戦い続け、最期まで蜀の前に立ちはだかった張郃は、蜀にとってはまさに「高き壁」であった。

張郃の実績は高く評価され、張遼・楽進・于禁・徐晃と並び「魏の五将軍」として後世に名を残した。

蜀の「五虎大将軍」と対比されることも多いが、魏の「五将軍」こそが先に成立した、由緒ある称号といえよう。

参考 : 『正史 三国志』魏書・張楽于張徐伝(陳寿著)、裴松之注『魏略』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

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