天下は取ったが人がいない

画像 : 前漢の最大版図 public domain
紀元前202年、楚漢戦争に勝った劉邦が皇帝として即位し、漢王朝が始まった。
しかし当時の国土は、ほとんどが廃墟に近かった。
長く続いた戦乱によって村は壊れ、畑は荒れ、何よりもそこにいるはずの人間がいなくなってしまったからである。
秦末から前漢建国までの十数年間は、反乱と内戦が途切れなく続いた時代であった。
国家にとって人口はすべての基盤である。税を納めるのも、兵士になるのも、田畑を耕すのも人だからだ。
ところが漢の建国時は、役人が戸籍を調べても、その多くは空白地のような状態だったと考えられている。
税を取りに行くべき家が存在せず、徴兵しようにも若い男が見当たらないのである。
この危機感は史書にも記されている。
『漢書』食貨志は、秦末から漢初にかけての社会が極度に疲弊し、米価が暴騰し、餓死や人食いまで起きたことを伝えている。
漢帝国は、勝利の余韻に浸る余裕などなく、まずは国家そのものを支える人口をどう立て直すか、という危機に直面していたのである。
こうして劉邦たちが建国した漢は、まずは「人を増やす」ことが最優先課題となったのだ。
なぜ結婚が国家問題になったのか?

画像 : 劉邦(りゅうほう) public domain
漢帝国が直面していた「人口不足」は、単に人が少ないという話ではなかった。
より深刻だったのは、人の動きが国家の管理から外れてしまっていたことにある。
戦乱の中で戸籍は崩れ、家族は離散し、多くの人間がどこの誰か分からない存在になっていた。
国家にとって把握できない人間は、税も取れず、兵にもできず、事実上いないのと同じなのである。
前漢の統治は、戸籍と税を軸に動く仕組みであった。
この仕組みが機能しなければ、国家財政はすぐに干上がってしまう。ところが漢の建国直後、その戸籍そのものが崩壊していた。
さらに問題だったのは、人口が自然に回復するのを待っていられないという現実である。
戦争で失われた世代を取り戻すには、少なくとも数十年はかかる。だが建国されたばかりの漢帝国にはそんな余裕はなかった。
ここで「結婚」が政策の対象になった。
子どもは結婚からしか生まれない以上、婚姻の成立は人口回復の出発点になる。
これまで、個人の縁談や家族の事情として扱われていた結婚が、いつのまにか国家の財政と軍事に直結する大問題へと変わっていたのである。
そして次第に、結婚しないことや子を産まないことが「国家にとって不利益な行為」と見なされるようになっていった。
15歳で結婚しない女性は罪人

画像 : 前漢の夫婦壁画 public domain
そして、漢帝国が選んだ方法は「結婚と出産をそのまま税制に組み込む」というものだった。
劉邦の治世から始まり、制度としては呂后と漢政府によって整えられ、やがて明文化されていった。
その中核にあったのが、未婚の女性に対する課税である。
『漢書』孝惠皇帝紀には、はっきりとこう記されている。
女子年十五以上至三十不嫁,五算
漢書・巻二 孝惠皇帝紀より引用
これは、15歳以上30歳までに結婚しない女性には「五算」、すなわち通常の人頭税の5倍を課すという意味である。
つまり15歳を過ぎた時点で未婚の女性に発生し、結婚すれば止まり、30歳に達すると打ち切られる仕組みだった。
これは道徳的な非難ではなく、明確な罰金制度であった。
貧しい農家にとって耐えられる金額ではなく、娘を家に残しておくこと自体が家計を圧迫することとなった。
この制度の本質は、結婚を選択肢ではなく義務化した点にある。
結婚しなければ税で罰せられ、結婚すればその負担は消える。しかもこれは女性だけに向けられた制度だった。
男子が結婚しないことに対する、同種の罰則は設けられていない。
婚姻の成立を女性側の責任に集中させ、国家の人口政策の歯車として組み込んだのである。
こうして漢帝国では、15歳を過ぎて結婚しない女性は、事実上「国家に迷惑をかける存在」と見なされる社会が生まれたのだ。
婚姻政策の効果とその後

画像 : 漢武帝 public domain
この人口政策は冷酷に見えるが、果たして漢帝国の再建にどれほどの実効性があったのだろうか。
実際、前漢の人口は第5代にあたる武帝期には3000万人を超え、秦末の水準にまで回復している。
制度は確かに「効いた」のである。
だが、この制度が生んだ歪みも早くから意識されていた。
前漢の第10代皇帝・宣帝の時代、官僚の王吉は上奏文の中で「世俗の嫁娶ははなはだ早く、まだ父母となる道を知らぬうちに子をもうけ、その結果、多くの人が短命になっている」と批判している。『※漢書・王吉伝』
これは、国家と社会が結婚と出産を急かしすぎていることへの、内部からの警告であった。
後漢に入っても早婚の慣行は続いたが、次第に「早すぎる結婚は不幸を生む」という認識が広がっていった。
3世紀以降の魏晋南北朝の時代になると、名門家同士の婚姻が重視されるようになり、結婚は国家の人口政策というより、家の戦略や身分秩序をめぐる問題へと重心が移っていった。
その過程で、未婚の女性に直接課税するような制度は事実上姿を消し、唐代の律令体制では婚姻は礼制と慣習の枠内に戻されていく。
終わりに
結婚と出産という本来きわめて私的な領域が、ここまで露骨に国家に組み込まれた時代は中国史でも例外的であった。
この制度が示しているのは、当時の漢帝国がどれほど追い詰められた状態で出発したかという事実である。
やがて制度は消えていったが、戦国の長い戦乱と秦帝国の崩壊、さらに楚漢戦争を経た直後の漢は、想像以上に危機的な状況にあったと言えるだろう。
参考 : 『漢書』孝惠皇帝紀、王吉伝、食貨志 他
文 / 草の実堂編集部
























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