大正&昭和

「開発者が訓練中に殉職…」日本軍初の特攻兵器・人間魚雷〈回天〉とは何だったのか?

1941年、真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争が開戦しました。

しかし、1942年のミッドウェー海戦以降、日本は次第に戦局の主導権を失い、苦戦を強いられるようになります。

戦況が悪化する中、従来の戦術だけでは状況を打開できないという認識が広がり、非常手段として生み出されたのが特攻兵器でした。

飛行機による体当たり攻撃から、小型ボートによる突撃まで、その形態は多岐にわたります。

そうした特攻兵器の中に、魚雷を用いて敵艦に突入する兵器がありました。

それが「回天」です。

「一度出撃すれば、生きて帰ることはほとんど望めない」搭乗員たちにそう受け止められていた、必死の兵器でした。

今回は、この回天がどのような兵器であり、いかなる経緯で開発されるに至ったのかを見ていきます。

回天とは

画像:回天四型。ハワイのUSSボーフィン潜水艦博物館に展示 J JMesserly CC BY-SA 3.0

そもそも、回天とはどのような兵器なのでしょうか。

回天は全長約14.5メートル、炸薬約1.6トンを搭載した強力な兵器です。
直径1メートルの筒状の艇体の内部には、1人分の操縦席と潜望鏡が設けられていました。

魚雷そのものに人が乗り込み、操縦して敵艦に突入することから、「人間魚雷」と呼ばれています。

回天は航続距離が短いという制約を抱えていました。

回天の航続距離は、10ノット(時速約18キロ)で約78km、30ノット(時速約54キロ)では約23kmに過ぎません。

このため、基地から直接出撃することは現実的ではなく、母艦となる潜水艦の甲板上に搭載する形で運用されました。

回天の前身「甲標的」

人間魚雷という発想自体は、1930年代初頭にはすでに存在していました。

ロンドン軍縮条約によって兵力量に制約を受けた日本海軍では、列強との物量差を補うため、新たな兵器の可能性がさまざまに模索されていたのです。

そうした中で、魚雷に人間が搭乗し、直接操縦して攻撃する「人間魚雷」という構想も現れました。

発案者の一人とされるのが、横尾敬義(よこおたかよし)予備役海軍大佐です。

しかし当時の海軍には、兵器は原則として生還を前提とすべきだという考え方が強く、必死の兵器と受け取られかねない人間魚雷の構想は、公式には採用されませんでした。

その一方で、より現実的な形として実用化されたのが、回天の前身ともいえる特殊潜航艇「甲標的(こうひょうてき)」です。

画像:前方から見た甲標的甲型 「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)所蔵。 Flickr userCC BY-SA 2.0

甲標的は全長約24メートル、直径約2メートルの小型潜航艇で、艦首に2本の魚雷を搭載していました。

母艦となる潜水艦から発進し、敵艦に接近して魚雷を発射することで命中率を高める兵器であり、理論上は生還を前提として設計されています。

ただし、甲標的を回収するためには母艦が一度浮上する必要があり、敵前での浮上は大きな危険を伴いました。

そのため、運用のリスクを指摘する声も少なくありませんでした。

しかし協議を経た結果、甲標的は1941年の真珠湾攻撃に実戦投入されました。

甲標的は2人1組で運用され、計5艇、10名の搭乗員が出撃しています。この作戦で、9名が命を落とし、1名は生存して捕虜となりました。

当時の日本のメディアは、亡くなった搭乗員たちを「九軍神」と称して大きく報じています。

画像:真珠湾攻撃で戦死した九軍神の肖像画 public domain

それは、国のために命を捧げる行為を美徳とする価値観を強く打ち出すものでした。

こうした風潮は、その後の特攻作戦にも受け継がれていきます。

その意味で甲標的は、後に登場する特攻兵器の精神的な前身と位置づけることができるでしょう。

「回天」開発の経緯

甲標的が導入された真珠湾攻撃から2年後の1943年12月。

戦局の悪化を背景に、黒木博司(くろきひろし)大尉と、仁科関夫(にしなせきお)少尉は、人間魚雷の構想をまとめた設計案を携え、海軍省軍務局を訪れました。

画像 : 左が回天を創案した仁科関夫(にしな せきお) public domain

2人は一撃必殺の新兵器として採用を求めましたが、当時軍務局第一課長であった山本善雄大佐は、甲標的の時と同様、必死の兵器には慎重な姿勢を示し、直ちの採用は見送られます。

しかしその後も戦況は好転せず、1944年に入ると状況はさらに深刻化しました。

こうした中で、同年2月、海軍は方針を転じ、人間魚雷の試作に踏み切ります。
試作は呉海軍工廠で進められ、同年7月には試作艇が完成しました。

この兵器は開発段階では秘匿名「〇六(マルロク)金物」と呼ばれていました。

これは、1944年4月に黒島亀人軍令部第二部長が第一部長に提出した「作戦上、急速実現を要望する兵力」の中で、第6項に「大威力魚雷」が挙げられていたことに由来します。

この「大威力魚雷」が、後の回天にあたるものでした。

こうして試作と評価を経た人間魚雷は、1944年8月、正式に兵器として採用されます。

「回天」という名称には、「天を回らし、戦局を挽回する」という意味が込められていました。

この名は特攻部長であった大森仙太郎少将によって与えられたものですが、そこには、構想段階から黒木らが抱いていた戦局逆転への強い思いが反映されていたと言えるでしょう。

黒木の死

画像:黒木博司大尉。回天の発案者の1人 public domain

回天が正式に採用され、実戦投入までの間、回天隊員に選ばれた若者たちは厳しい訓練に励みました。

しかし、すべての者が無事に訓練を終えられたわけではありません。中には、訓練中に命を落とした者もいました。

回天の考案者の一人である黒木博司大尉も、その一人です。

採用から間もない1944年9月、黒木大尉は大津島沖で夜間訓練を行いました。

当日は天候が悪く、中止を進言する声もありましたが、実戦では悪天候下での行動も想定されるとして、訓練は決行されたのです。

黒木らの乗った回天は、18時頃発進しました。

しかし、予定時刻を過ぎても黒木の搭乗する回天は浮上してきません。

夜を徹して捜索が続けられ、翌朝、海面に浮かぶ気泡を発見した捜索艇によって回天は引き上げられました。
艇内には黒木大尉と、同乗していた樋口孝大尉が倒れており、すでに絶命していました。

黒木大尉は事故の際、艇内に遺書とともに、事故原因や改良点についての所感を残していました。

その内容は、最後の瞬間まで兵器の完成を考え続けていた、考案者らしいものでした。

犠牲ヲ乗リ越ヘテコソ、発展アリ、進歩アリ。我々ノ失敗セシ原因ヲ探求シ、帝国ヲ護ルコノ種兵器ノ発展ノ基ヲ得ンコトヲ

意訳:犠牲を乗り越えてこそ発展と進歩がある。今回の失敗の原因を究明し、この兵器を発展させ、国を守るための礎を築きたい。

黒木の言葉の通り、回天隊員たちはこの事故を乗り越え、1944年11月、ウルシー環礁への攻撃で初めて実戦に投入されました。

初陣となった回天特別攻撃隊(菊水隊)には、黒木大尉とともに開発に携わった仁科関夫中尉も含まれていました。

仁科中尉は、この作戦で戦死しています。

しかし、仁科中尉の搭乗した回天は米海軍の給油艦ミシシネワに命中し、沈没させました。

黒木の遺志を胸に突入したとも伝えられています。

画像 : 回天特攻によって横転したミシシネワ public domain

戦果

命を賭して出撃した回天ですが、実際の戦果はどのようなものだったのでしょうか。

前述したウルシー環礁での給油艦ミシシネワ撃沈のほか、揚陸艇や小型艦艇など数隻が撃沈され、さらに数隻が損傷を受けたとされています。

確認されている範囲では、撃沈は2〜3隻程度、損傷は4隻前後とされ、その多くは輸送艦や小型艦でした。

しかし、回天を含む特攻兵器は、本来、空母や戦艦といった主力艦を一撃で無力化することを想定して開発されました。

その想定を踏まえると、期待されたほどの成果を挙げることができなかったと言えるでしょう。

画像:回天を搭載して出撃する伊47 public domain

回天に搭乗し、出撃の末に命を落とした搭乗員は、資料によって差はあるものの、80名あまりにのぼるとされています。

また、回天を搭載して作戦に参加した潜水艦も8隻が失われました。

こうした損失を考えると、回天作戦は挙げた戦果以上の代償を払ったと言っても過言ではありません。

ただし、回天の戦果については、日本側・アメリカ側双方の記録を突き合わせても、なお不明な点が残っています。

アメリカ軍が回天を警戒し、防備を強化していった事実は確認されていますが、それがどこまで実際の戦果に結びついたのかは、現在も明確にはなっていません。

回天については、今なお全体像が完全には解明されていないのが実情なのです。

参考:
栗原俊雄『特攻—戦争と日本人』中央公論新社刊 2015.8
文 / 岩崎由菜 校正 / 草の実堂編集部

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