戦国時代は、実力さえあれば誰でも出世できた―。
そんなイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。
しかし実際のところ、戦国社会はれっきとした身分社会でした。
武士の家に生まれた者は武士として仕え、家柄によって役職や地位も大きく左右されます。
では、最下層の兵士である足軽はどうだったのでしょうか。
戦功を重ねれば侍大将ほどの地位に出世することはありました。
ですがそこからさらに上、城の主、つまり武将と呼ばれる階層にまで登りつめることは、ほとんど不可能だったのです。
ところが、その常識を覆した人物がいました。後に天下人となる豊臣秀吉と、弟の秀長です。
ドラマ『豊臣兄弟!』でも描かれているこの二人の出世物語は、戦国史の中でも極めて異例だったのです。
「足軽」とはどんな身分だったのか

画像:火縄銃の一斉射撃を行う足軽部隊 public domain
本題に入る前に、おさらいの意味も含めて「足軽」とは何かについて簡単に触れておきましょう。
足軽が歴史の舞台に現れるのは室町時代です。
事の真偽は別として、室町時代後期、江戸城を築城した太田道灌(おおた どうかん)が独自に編み出したとされる「足軽戦法」というものがあります。
道灌は農民を江戸城で訓練して足軽隊を編成。
足軽たちを平原に伏せておいて敵軍を誘い出し、槍で馬を突いて落馬した武者を討ち取るという戦法で、30数回の合戦でほぼ無敗の戦績を残したという伝承があります。
やがて戦国時代になると本格的な足軽が登場しますが、彼らは正規の武士ではなく普段は農民でした。
ところが織田信長や豊臣秀吉の時代になると、年貢の一部を免除してもらう代わりに軍役を担う傭兵に近い存在の者も現れます。
彼らは長槍を武器に集団で槍衾(やりぶすま)を形成し、合戦の最前線に立つようになりました。
さらに鉄砲が普及すると、弓組とともに鉄砲足軽組も編成され、やがて合戦の主力となっていくのです。
戦国時代「足軽」はどこまで出世できたのか

画像 : 加藤清正(左)藤堂高虎(右) public domain
しかし、いくら足軽部隊が合戦場で重宝されるようになっても、そこはやはり雑兵の域を出ることはありませんでした。
ただ、彼らの中にはその地位に甘んじるのではなく、武功を立てて出世しようとする者も現れます。
その一般的な出世ルートとしては、足軽からひとかどの武士となり、足軽部隊を統率する足軽大将になる。
さらにその地位で武功を重ねれば、軍の部隊長に相当する侍大将になることも可能でした。
つまり大きな戦功を挙げれば、ここまでは出世が可能だったわけです。
ただしこれより先の地位になると、軍団を統率する軍団長、つまり武将ということになります。
軽輩の身から武将にまで駆け上がった人物としては、加藤清正、福島正則、明智光秀、藤堂高虎などが有名です。
しかし清正や正則の家は農民というよりも土豪層に近く、さらに秀吉の母方の親族でもありました。
光秀や高虎も、一度は没落して足軽同様の境遇に落ちていたとはいえ、もとは小大名に近い家柄の出身だと考えられています。
つまり武将という地位に上り詰めた彼らは、完全な足軽出身とは言い難い存在だったのです。
城主になるにはそれなりの家柄が必要

画像:波賀城と城下町(兵庫県宍粟市)public domain
戦国時代において城主とは、大小はあるものの、やはり大名クラスの武将のことを指します。
彼らは領地支配を行うため、本城と城下町をセットで経営しました。
城下町には領地に散らばる家臣を集め、屋敷を与えて住まわせることで家臣団の統率を図ります。
彼らの多くは名門武士や有力国人であり、地域の身分社会では上層部に属する家柄を持っていました。
しかしその壁を乗り越えたのが、秀吉・秀長の豊臣兄弟でした。
二人は兄弟そろって足軽から城主、大名となり、やがて大大名へと出世します。
そして秀吉はついには天下人となり、前例のない出世を果たしたのです。
なぜ豊臣兄弟がそれを実現できたのか

画像 : 豊臣秀吉と秀長 public domain
では、秀吉と秀長がそのような出世を果たせた理由は何だったのでしょうか。
そこには、彼らが仕えた織田信長という存在が大きかったと考えられます。
信長は家柄よりも能力を重視する傾向が強く、実力ある人物を積極的に登用しました。
織田家中を見回すと、各方面軍を統括した軍団長として、柴田勝家(北陸)、豊臣秀吉(中国)、明智光秀(近畿)、滝川一益(関東)といった武将が挙げられます。
このうち勝家を除けば、いずれも軽輩から身を起こし、信長に中途登用された武将たちでした。
その中で、最終的に没落することなく生き残ったのが秀吉だったのです。
それは秀吉の軍事能力や行政能力、そして人心掌握術がいかに優れていたかということでもあるでしょう。
これは歴史的に見ても極めて例外的で奇跡と言ってもよい出来事だったのです。
参考 : 『太田道灌状』『甲陽軍鑑』他
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























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