越前の守護大名として勢力を築き上げた朝倉氏。
しかし朝倉義景の代になって、織田信長に攻め滅ぼされてしまいます。
織田に引けをとらない実力を有していたはずなのに、あっけなく滅ぼされてしまったのはなぜでしょうか。
史料や文献をひもとくと、朝倉一族の内部抗争がその発端となっていたようです。
朝倉景垙の自決

画像 : 朝倉景垙の切腹(イメージ)。
朝倉氏は義景の惣領家を、敦賀郡司家と大野郡司家の二大分家が支えていました。
敦賀郡司家は朝倉景紀(かげのり)、大野郡司家は朝倉景鏡(かげあきら。池内万作)が当主を務めていましたが、この両家はあまり仲がよくなかったそうです。
景紀は永禄元年(1558年)ごろに嫡男の朝倉景垙(かげみつ/かげみち)に家督を譲り、隠居しました。
永禄7年(1564年)に義景が加賀一向一揆の鎮圧に乗り出すと、景鏡と景垙で総大将の座を争ったと言います。
景垙はまだ若かったせいか、総大将としては認められず、結局は景鏡と朝倉景隆(かげたか)が総大将に任じられました。
後世の『朝倉始末記』などの軍記物では、これが禍根となって景垙と景鏡は陣中でも激しく口論したと伝えられています。
陣中で大将同士が対立する様子は、ほかの将兵にも少なからず動揺をもたらしたことでしょう。
そして9月2日、景鏡との対立が深まる中で、景垙はなんと自害してしまったのです。
いったい何を言い放ったらそこまで追い詰められたのか、口論の内容については詳しく伝わっていません。
いずれにしても、この一件が景垙と景鏡の対立を決定的なものにしたようです。
朝倉景恒の還俗

画像 : 仏道に帰依していたが……(イメージ)
ひとかどの大将が陣中で自害するという異常事態に、義景は急きょ自ら加賀へ出陣。何とか一向一揆の鎮圧に成功しました。
しかし朝倉家の当主が自ら国外へ出陣するのは異例中の異例。実に明応4年(1495年)以来およそ70年ぶりの事態を前に、人々は朝倉家の前途を案じたのかも知れません。
さて、敦賀郡司家では当主が自害してしまったため、景紀はそれまで出家していた次男の松林院鷹瑳(しょうりんいん ようさ)を、慌てて還俗させました。彼が朝倉景恒(かげつね)です。
景恒は父の期待に応えて奮闘しますが、結局は貧乏くじを引かされることになります。
元亀元年(1570年)4月に信長が越前国へ攻め込んで来ると、景恒は金ヶ崎城に立てこもって果敢に抵抗しました。
しかし衆寡敵せず、また援軍としてやって来るはずの朝倉景鏡は、いつまで経っても来てくれません。
こんな時まで助け合おうとしないとは……かくして刀折れ矢尽きた景恒は金ヶ崎城を開き、信長に降伏を余儀なくされます。
すると自分が見殺しにしたことは棚に上げて、景鏡はじめ朝倉一門はよってたかって景恒を糾弾するのでした。
朝倉景鏡にもはや敵なし?

画像 : 失意の景恒(イメージ)
後世の記録では、景恒の開城は「不甲斐なし」「朝倉名字の恥辱なり」などと厳しく非難されたと伝えられています。
……いや、そこまで言うなら、なぜ助けなかった?と言いたくなりますが、景恒は無念を呑み込んで再び出家しました。
そして同年9月28日、失意の中で世を去ってしまいます。
妻帯していなかった景恒に子はなく、また景垙の遺児・七郎はわずか8歳。年老いた景紀に家勢を建て直す力はなく、敦賀郡司家は衰退してしまったのでした。
さぁこれで大野郡司家の敵はいなくなった……景鏡の驕慢はますます盛んになり、何なら当主の朝倉義景すらしのぐ勢いです。
しかし織田の脅威が激しさを増す中で、そんな「井の中の蛙」を喜んでいられたのでしょうか。
最後は主君の義景まで……

画像 : 朝倉義景 public domain
やがて朝倉家の盟友であった浅井長政(中島歩)が信長の猛攻を受けて窮地におちいり、朝倉家に援軍を求めてきました。
義景は景鏡に急行するよう命じますが、景鏡は「これまで度重なる軍役に疲弊感している」ことを理由に、命令を拒否したのです。
要するに「疲れているから戦いたくないよ」とのこと……いや、そんなことを言っている場合でしょうか。
浅井が滅びれば、次はいよいよ自分たちの番です。
義景は再び越前を出て自ら救援に向かったものの、力及ばず浅井は滅ぼされてしまうのでした。
そして義景の行動が信長に目をつけられ、いよいよ越前への本格侵攻を招くことになります。
朝倉家の本拠地である一乗谷へ攻め込まれ、もはやこれまでとなったその時、景鏡が救いの手を差し伸べました。
ここは一度退いて、我が大野から捲土重来を期しましょう……とか何とか。
かくして一乗谷から引っ張り出された義景は、景鏡の軍勢に包囲され、あえなく自決して果てたのです。
裏切り者の末路

画像 : 野に骸を晒す(イメージ)
義景の首級とその妻子や家臣らの身柄を差し出すことで、景鏡は信長に降伏を許されました。
しかし景鏡は土橋信鏡(つちはし のぶあきら)と改名させられます。
朝倉の家名はもちろん、一族の通字である景も捨てさせられ、織田に屈服したことを示す「信」をあてがわれたのでした。
かくして命と本領を安堵された朝倉景鏡改め土橋信鏡ですが、天正2年(1574年)の越前一向一揆であっけなく討死してしまいます。
日のもとに かくれぬその名 あらためて 果は大野の 土橋となる
【意訳】日本で知らぬ者はいない朝倉の家名をかなぐり捨てた裏切り者は、野ざらしの骸となった。祖先の名誉に土をつける恥さらしめ。
裏切りが珍しくなかった戦国乱世にあっても、やはり一族に対する裏切りは一際軽蔑されたようです。
かくして北陸の名門・朝倉家はわずかな残党を除いて滅び去ってしまったのでした。
終わりに
今回は朝倉家の内部抗争と滅亡について紹介してきました。
上洛の機を逸したことや、信長に滅ぼされた結果だけを見て義景を暗愚・弱小と見るのは、少し片面的に過ぎる見方かも知れません。
組織は内部から崩壊するもので、一族がきちんと団結していれば、もしかしたら違った結果を迎えられたのでしょうか。
果たしてNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どのような結末が描かれるのか、朝倉一族の活躍に注目したいと思います。
※参考文献:
・松原信之『越前朝倉氏の研究』吉川弘文館、2025年10月
・水藤真『人物叢書 朝倉義景』吉川弘文館、1986年11月
・歴史群像編集部編『【全国版】戦国時代人物事典』学研パブリッシング、2009年11月
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部

























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