
画像:日本の古い農家。夜這いは、こうした閉じた家と村の空間のなかで行われていた。(イメージ)
「夜這い」という言葉には、どうしても荒々しい響きがつきまとう。
家に忍び込み、闇に紛れ、ひそかに関係を結ぶ。
こうした慣習を、現代の私たちは「野蛮な時代の遺物」として片づけがちである。
しかし民俗学の現場調査が描き出したのは、もう少し複雑な姿だった。
夜這いには細かな作法があり、それを見張る組織もあった。掟を破れば制裁が待っていた。
つまり夜の営みは、無秩序に放任されたものではなく、村のルールの中で営まれていたのである。
夜這いには作法があった
在野の民俗学者・赤松啓介(1909〜2000)は、1920年代から30年代にかけて西日本の農村を歩き、夜這い文化を聞き書きで記録している。
のちに『夜這いの民俗学』などに整理された事例を読むと、夜這いが個人の衝動に任された行為でなかったことが、はっきりと浮かび上がってくる。
作法の手解きも兼ねて、最初の相手は年長の経験者が選ばれるのが通例だった。訪ねて拒まれれば、その場で引き下がる。
未練がましく粘ることは許されず、地域によっては女性の側にも相手を受け入れるか拒むかの選択があったという。
特定の相手を独り占めするような振る舞いも、若者同士の嫉妬や諍いを招くとして戒められた。正式に結婚が決まるまでは、誰か一人に執着し、あからさまに独占欲を見せる態度は好まれない。
夜這いは未婚の若者同士を中心に行われ、既婚者との関係には越えてはならない一線が引かれる地域が多かった。
こうした制約は小さな社会の調和を保つ知恵であり、ルールを破れば罰金や村八分といった制裁が待っていた。
また地域差も大きく、家父長の監視が強い東北では、こうした風習は比較的薄かったとされる。
一方、瀬戸内や南紀など西日本に目を向けると、若者が将来の伴侶を見つける場として、村の年長者にある程度認められていた例も少なくなかった。
九州の一部に残る「夜咄(よばなし)」という呼び名は、夜に語り合うことに由来するとされ、娯楽の少ない村の社交が、そのまま男女の関係につながっていた風景を伝えている。
「若者組」という共同体の管理機構

画像:若者組(若衆宿)のイメージ。村の性規範は、こうした若者組織を通じて伝えられていた。(イメージ)
こうした夜の作法を支えていたのが、村の若者組(若衆宿)である。
若者組とは、15歳前後から結婚前後までの男子が加入する村落の組織で、江戸時代には全国に広く見られた。成員は消防、祭礼、共同労働、夜警を担い、村の実働部隊の役割を果たす。
それらと並行して、若者の性と結婚にまつわる作法を伝える場でもあった。
加入には一定の儀礼があり、年長者が年少者に掟を教えた。
誰のところへ通ってよいか、どう振る舞うべきか、何をすれば罰を受けるかなど、若者から若者へと受け継がれていった。
若者組は掟を破った者に制裁を加える権限も持っていた。違反者は村八分に相当する扱いを受けることもあれば、彼らの手で物理的な罰を与えられることもあった。
地域によっては女性の側にも「娘組」や「娘宿」と呼ばれる組織があった。
年長の女性が年少の女性に知識を伝え、夜這いを受ける側の振る舞いが教えられた。
このように男女に自律的な集団があり、性や結婚にまつわる作法もその中で身につけられていった。
誰と誰が結びつき誰が子を産むかは、将来の労働力にもつながる。だからこそ組織的な管理の対象になっていたのである。
柳田國男はなぜ夜這いを書かなかったのか

画像:柳田國男(wiki c)
ここまで読むと素朴な疑問が浮かぶ。
かつて村落にこれほど広く見られた慣習が、なぜ現代の私たちにはあまり知られていないのか。
ここで見逃せないのは、日本民俗学の中心にいた柳田國男が、この領域を正面から大きくは扱わなかったことである。
柳田の民俗学は、農民の暮らしや祭礼、民話を丁寧にすくい上げる一方で、村の性生活をはじめ、被差別民や非定住民の生々しい習俗には踏み込みが薄かった。
こうした点を、赤松啓介は主流民俗学の限界として批判した。
戦前に治安維持法で投獄され、戦後も大学のポストを持たずに在野を貫いた赤松は、つねに主流の外側にいた人物だった。だからこそ国家の論理や学界の常識に収まりきらない、村の泥臭い現実に目を向けることができたのだろう。
彼の記録は長く周縁に置かれていたが、1980年代に入ると、主流民俗学を見直す流れのなかで改めて注目されるようになった。
近代が消したもの

画像:歌川国輝(二代)「上州富岡製糸場」(明治5年)。近代社会は村の慣習に代わって、労働と身体を国家が管理する制度へと組み替えていった。public domain
夜這い文化が衰退した契機は、明治政府の取締りによるところが大きい。
明治初期には、祭礼や風俗、日々の暮らしにまで細かな規制が及ぶようになり、その流れの中で1872年には違式詿違条例(日常生活の細かな行為まで取り締まる法令)も定められた。
村落の性慣習も、しだいに「改めるべき旧習」と見なされ、一夫一妻制を軸とする近代家族のかたちへ組み替えられていく。
その背景には、文明開化の掛け声、キリスト教的な性道徳、そして近代国家が国民の身体と家族を管理するための制度設計があった。
電灯の普及、学校教育の浸透、家父長制的な近代家族の定着によって、夜這い文化は20世紀前半までにほとんどの地域で姿を消した。
一部の僻村では戦後まで残ったという記録もあるが、あくまで例外的な事例である。
また、逃げ場のない村の中で、女性の選択がどこまで守られていたかは疑わしい。
力の強い者が無理を押し通すこともあれば、周囲の空気に逆らえず不本意な相手を受け入れざるを得なかった若者もいたはずで、決して美しい習俗として語れるものではない。
それでも赤松が記録に残したのは、共同体が「性」という扱いにくい領域に、自前のルールを与えて運用していた時代が確かに存在していたという事実である。
参考文献 :
赤松啓介『村落共同体と性的規範 夜這い概論』言叢社、1993年
赤松啓介『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉2004年
春田国男「違式註違条例の研究 一文明開化と庶民生活の相克」他
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

























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