
画像 : カール14世ヨハン Fredric Westin Public domain
フランス革命という猛烈な嵐が吹き荒れた、18世紀末のヨーロッパ。
この混迷を極める時代にあって、奇跡のような立身出世を遂げた男がいました。
彼の名はジャン・バティスト・ベルナドット。
フランスの平凡な一兵卒から軍歴をスタートし、後に皇帝となるナポレオン・ボナパルトの部下として数々の戦功を挙げ、頭角を現していきます。
しかし、ベルナドットはナポレオンという強烈な光のそばにいながらも、その影に甘んじるような男ではなかったのです。
一兵卒からフランス元帥へ

画像:フランス王国軍時代のベルナドット public domain
ベルナドットは1763年、フランス南西部のポーという街で、法律家の息子として産声を上げました。
父と同じ法律家への道を歩むはずだった彼は、1780年に17歳で海兵連隊へ入隊します。
当時のフランス軍は、貴族でなければ指揮官になれない厳しい身分社会でしたが、1789年に始まった「フランス革命」がその常識を打ち破ります。
実力さえあれば誰でも道が開ける新時代となり、ベルナドットは類まれな戦術眼とカリスマ性で瞬く間に頭角を現しました。
入隊時はただの一兵卒だった彼は、わずか14年後の31歳で、数千人を率いる「師団将軍」へと異例のスピード出世を果たしたのです。
彼が当時のナポレオンに出会ったのは1797年のこと。しかし二人の関係は非常に複雑でした。
ベルナドットはナポレオンの才能を認めつつも、その独裁的な野心を危惧していました。
また、私生活でも奇妙な縁が二人を繋ぎます。
ベルナドットは、ナポレオンのかつての婚約者デジレ・クラリーと結婚したのです。

画像:ベルナドットとデジレ public domain
しかもデジレの姉はナポレオンの兄ジョゼフに嫁いでいたため、ベルナドットはナポレオンの兄と義理の兄弟という関係にもなりました。
この複雑な縁が、後の二人の確執、そして時には寛容を生むことになります。
運命を変えたリューベックの捕虜たち
1804年、ナポレオンが皇帝に即位すると、ベルナドットはその功績からフランス軍最高位である「帝国元帥」の称号を授けられました。
しかし、自由と平等を重んじる共和主義を信奉する彼は、強権を振るうナポレオンとしばしば衝突しました。

画像 : 帝国元帥ベルナドット public domain
そんな彼の運命を大きく変える出来事が、1806年の対プロイセン戦で起こります。
北ドイツのリューベックという都市を攻略した際、ベルナドットは1000人以上のスウェーデン軍捕虜を拘束しました。
略奪が当たり前だった当時の戦場で、彼は捕虜たちに温かい食事を与え、将校たちを自らの食卓に招いて最大限の敬意を払いました。
この異例の慈悲深い振る舞いは捕虜たちの心に深く刻まれ、帰国した彼らによってベルナドットの名は「高潔な軍人」として北欧中に広まります。
一方、当時のスウェーデン王国は、国が消滅しかねないほどの危機に瀕していました。
1809年、東の隣国である強大なロシア帝国との戦争に敗れ、それまで数百年にわたってスウェーデンの東半分を構成していたフィンランドの地を、まるごと奪い取られてしまったのです。
当時のスウェーデンにとって、フィンランドは単なる植民地ではなく、まさに国を支える「体の一部」でした。
この大敗によって国土の約3分の1という広大な面積を失ったショックは計り知れず、国民の怒りは爆発します。
無能な国王はクーデターで無理やり引きずり降ろされ、新しく即位した高齢のカール13世にも後継ぎがいなかったため、スウェーデンは家系の途絶えた「リーダー不在」の混乱に陥りました。
この絶望的な状況で、スウェーデン人が救世主として目をつけたのが、フランスの英雄ベルナドットでした。
彼らは「軍事の天才を王に迎えれば、ロシアに奪われた土地を取り戻し、強いスウェーデンを復活させてくれるはずだ」と、起死回生の賭けに出ます。

画像:カール・オットー・メルナー public domain
そしてベルナドットの評判を聞きつけた、スウェーデンの若き中尉カール・オットー・メルナー男爵が、「フランスの英雄を王太子に」と独断でパリへ乗り込み、彼をスカウトするという前代未聞の提案をしたのです。
ナポレオンは驚きつつも、扱いづらい部下を遠ざける好機とも考え、これを黙認。
1810年、フランスの一元帥がスウェーデンの王太子「カール・ヨハン」として迎えられることになりました。
かつての主君との決別
北欧の地に渡ったカール・ヨハンは、フランスの代理人ではなく、スウェーデンの指導者として生きる決意を固めます。
ナポレオンは彼を「フランスの忠実な手先」として利用し、イギリスとの貿易を禁じるなどの無理難題を押し付けましたが、彼は自国の経済を守るためにこれを断固拒否しました。
1812年、ナポレオンがスウェーデン領ポメラニアを占領したことで、二人の決裂は決定的なものとなります。
カール・ヨハンは、かつての宿敵であったロシア皇帝と同盟を結び、打倒ナポレオンの旗を掲げました。
彼はナポレオンの戦い方を誰よりも熟知しており、ヨーロッパ各国の連合軍に対して、「ナポレオン本人との直接対決を避け、彼の部下たちが守る手薄な場所を叩く」という軍事アドバイスを送ります。

画像:ライプツィヒの城門を攻撃する スウェーデン軍 public domain
1813年、現在のドイツで行われた「ライプツィヒの戦い」。
ヨーロッパ全土を巻き込んだこの大決戦で、カール・ヨハンは連合軍の一角として、かつての主君ナポレオンと対峙しました。
彼はかつての戦友たちがいるフランス軍を攻撃することに葛藤を見せつつも、戦略的な包囲網を築き、ナポレオン帝国崩壊の立役者になりました。
後にナポレオンは、流刑先のセントヘレナで彼を「私の胸で育てた蛇」と評したと伝えられています。
ベルナドッテ朝の確立と中立政策

カール14世ヨハンとして臨終の床にあるベルナドット public domain
ナポレオンが敗北して歴史の表舞台から去った後、カール・ヨハンは1818年に正式にスウェーデン国王「カール14世ヨハン」として即位しました。
かつてはフランス軍の一平卒だった男が、ヨーロッパ王家の列に加わったのです。
彼の大きな功績のひとつは、後のスウェーデン中立政策につながる外交方針の礎を築いたことでした。
戦争に明け暮れた前半生から一転し「平和こそが国家の繁栄をもたらす」と、軍事的な拡張を捨てて内政の充実に力を注ぎました。
彼は生涯スウェーデン語を話すことができず、閣僚とはフランス語で対話していましたが、その平和への情熱は国民から絶大な信頼を勝ち取ることになります。
1844年、ベルナドットは81歳でこの世を去りました。その腕には、フランス革命時代に彫ったとされる「王たちに死を」という刺青が残っていたと語り継がれています。
彼が創設した「ベルナドッテ朝」は、一度も途絶えることなく現スウェーデン王室へと繋がっています。
ベルナドットは、かつての主君を裏切ったという評価がある一方で、スウェーデンから見れば滅亡の淵から国を救い、200年以上続く平和の礎の種をまいた大恩人として評価されています。
それは激動のヨーロッパ近代史そのものを映し出す、強烈な一頁と言えるでしょう。
参考文献 :
物語スウェーデン史:バルト大国を彩った国王、王女たち/武田 龍夫(著)
北欧の外交:戦う小国の相克と現実/武田 龍夫(著)
文 / 草の実堂編集部

























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