泥沼の時代に現れた希望

画像 : 西暦280年の西晋の領域 Ian Kiu CC BY-SA 3.0
3世紀末、中国では魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権らが争った三国時代が終わり、西晋による統一王朝の時代が始まっていた。
しかし290年、初代皇帝・司馬炎が崩御し、2代目皇帝・司馬衷(しばちゅう)が即位すると、宮廷では皇后の賈南風や外戚、司馬一族の諸王たちが、司馬衷を政治の駒として利用しながら主導権を奪い合うようになった。
この争いはやがて「八王の乱」と呼ばれる大乱へと突入する。
諸王の多くが司馬衷を権力争いの駒として利用する中で、最後まで皇帝としての礼を失わなかった人物がいた。
今回は、八王の中で例外的に希望と呼べる存在だった長沙王・司馬乂(しばがい)を紹介する。
期待と左遷
277年、晋の武帝・司馬炎の第17子(諸説あり)として生まれた司馬乂は、幼い頃から聡明さで知られ、289年には長沙王に封じられている。
翌290年に司馬炎が崩御すると、当時14歳だった司馬乂は父の死を深く悲しみ、大声を上げて泣き続けたという。
古代中国では、特に親の死に際して深い悲しみを示す事は孝行の表れとされており、その振る舞いは周囲からも高く評価された。

画像 : 司馬衷(しばちゅう 恵帝)西晋の第2代皇帝 public domain
司馬衷即位の翌291年、司馬乂の兄である楚王・司馬瑋(しばい)と皇后の賈南風(かなんぷう)が、汝南王・司馬亮(しばりょう)の排除に動き出す。
二人は司馬亮と重臣の衛瓘(えいかん)を討つ詔を各所に出し、司馬乂もその軍勢の一人として参加する。
だが、この詔は皇帝である司馬衷の意思を無視したものであり、司馬瑋と賈南風によって事実上勝手に作られたものであった。
司馬乂は偽りの詔によって同族の討伐に加担させられていた事を知り、弓を捨てて涙を流すが、首謀者の一人である司馬瑋は程なくして起きた賈南風との権力争いに敗れ、処刑されてしまう。
早くも八王のうちの二人が消える波乱の幕開けとなる八王の乱だが、粛清の余波は司馬瑋の弟である司馬乂にも及び、常山王へ降格、左遷となり、中央から遠ざけられる事になった。
再び長沙王へ

画像 : 趙王の司馬倫(しばりん)※司馬懿の第9子 public domain
洛陽から離れた常山で雌伏の時を過ごした司馬乂だったが、司馬瑋の処刑から9年後の300年、趙王・司馬倫(しばりん)が賈南風を討伐すべく兵を出し、賈南風とその一族を殺害し、悪女として後世に名を残す皇后はその生涯を閉じた。
だが、これで権力が皇帝に戻る事はなく、翌301年には司馬倫が帝位を簒奪してしまう。
当然ながら各王がそれを放置するはずはなく、斉王・司馬冏(しばけい)、河間王・司馬顒(しばぎょう)、成都王・司馬穎(しばえい)が司馬倫討伐の兵を挙げる。
司馬乂も討伐軍に参加して、司馬倫の本拠地である趙国へ進み、抵抗した房子県の長官を討ち破った。
さらに常山内史の程恢(ていかい)という者が謀反を企んでいることを察知すると、先んじて動き、これを討ち取る活躍を見せる。
各王の活躍もあり司馬倫が討ち取られると、洛陽に入った司馬乂は再び長沙王に任じられ、かつての領地への帰還を果たす。
これで各王が皇帝・司馬衷を補佐すべく力を合わせる事が出来れば晋は磐石になるところだったが、冒頭にも書いた通り、司馬衷を皇帝として見ていたのは司馬乂だけだった。
司馬冏討伐

画像 : 八王の乱 封国分布図 public domain
司馬倫の討伐によって皇帝・司馬衷に権力が戻ると思いきや、斉王・司馬冏(しばけい)主導による独裁政権となる。
相変わらず皇帝を皇帝と見ない司馬冏を、司馬乂が快く思うはずがなく、司馬炎の墓参りに異母弟の司馬穎(しばえい)と赴いた際には「この天下は先帝が作ったものだ。お前はそれを守らなければならない」と、司馬冏の専横を批判している。
身内から批判続出だった司馬冏の天下が長続きするはずがなく、翌302年、河間王・司馬顒(しばぎょう)は司馬冏打倒を掲げ、司馬乂も討伐軍に参加する。
当時司馬乂は洛陽におり、真っ先に司馬冏の軍と交戦となるが、参加要請の裏で司馬顒は双方の排除、更には弱体化を目論んでいた。
もっと詳しく書くと司馬乂の軍は兵が少なく、むしろ司馬冏に敗れる事を期待しており、その隙を突くのが司馬顒の作戦だった。
確かに八王のうちの一人が消え、もう片方も無傷では済まない「漁夫の利」を狙う作戦は成功率は高かったが、司馬乂の軍事的才能は司馬顒の想像以上だった。
宮中に入った司馬乂は即座に司馬衷を自軍の側に確保し、そのうえで司馬冏の府を攻撃し、建物に火を放って一気に攻め立てた。
結局、司馬冏は配下の趙淵の裏切りによって捕えられ、処刑された。
司馬乂の独擅場というべき大活躍だったが、この勝利は更なる混乱の序章に過ぎなかった。
泥沼化する八王の乱

画像 : 河間王・司馬顒(しばぎょう)public domain
司馬冏を討伐したことで、その気になれば権力を握れた司馬乂だが、独断による政治運営はせず、成都王の司馬穎(しばえい)と協議して皇帝・司馬衷を支える事を理想としていた。
司馬乂の考え方は、混乱する晋にとって最も穏当な政治体制に近かったが、何度も述べている通り、司馬衷を皇帝として見ているのは司馬乂だけだった。
政治の主導権を握りたかった司馬穎にとって司馬乂はもはや兄ではなく、権力争いの邪魔者であり、司馬乂が手柄を立ててしまった事は大誤算だった。
303年、司馬顒(しばぎょう)と司馬乂、それぞれの配下が衝突して一触即発の事態になった事を理由に、司馬顒と司馬穎は司馬乂の専横を糾弾する文章を共同で上奏し、司馬乂に宣戦布告する。
しかし、これまで権力争いの道具としか見られなかった皇帝・司馬衷も意思を持った人間だった。
司馬衷は「都を侵そうとしている逆賊は司馬顒である!」として、司馬乂に司馬顒の討伐を命じたのである。
さらに自らも兵を出して戦場に赴くなど、即位以来ほとんど傀儡として扱われてきた皇帝が、ついに自身の意思を反映させた行動を取ったのだ。
そして司馬顒と司馬穎は組んでいたため、結果として司馬乂は両者を相手に戦うことになる。
権力争いに次ぐ権力争いで八王の乱は更に泥沼化していたが、司馬乂という柱を得た司馬衷の目には、ようやく乱の終わりが見えていた…はずだった。
司馬乂の最後

画像 : 成都王・司馬穎(しばえい)public domain
司馬顒(しばぎょう)は部下の張方に精兵7万を与え、司馬穎(しばえい)も陸機・石超らに20万余りの兵を率いさせて洛陽へ向かわせた。
合計すれば、約27万にも及ぶ大軍である。
これまで連戦連勝だった司馬乂だが、流石にこの兵力を野戦で真正面から受け止めるのは難しかった。
緒戦で配下の皇甫商が張方に敗れると、司馬乂は洛陽を拠点とした防衛戦に切り替えていく。
洛陽を包囲した司馬顒・司馬穎の連合軍に対し、司馬乂は城内に籠もって抵抗を続けた。
兵力差は圧倒的だったが、司馬乂は城門に迫る敵軍を何度も撃退し、なおも戦線を維持する。大軍を相手にしても崩れないその戦いぶりは、まさに八王の中でも異例の存在感だった。
とはいえ、戦が長引けば洛陽の被害は広がるばかりである。朝廷内では、司馬乂と司馬穎が兄弟であることから、和睦によって事態を収めようとする動きもあった。
しかし、天下を二分して統治する案を司馬穎は受け入れず、逆に司馬乂の側近である皇甫商らの処刑を要求してきた。
司馬乂は当然これを拒んだため、交渉は決裂した。
長期戦によって洛陽の兵糧は尽きかけていたが、司馬乂が率いる兵の士気は高く、守りはなお崩れなかった。
攻め手である張方も洛陽攻略は困難と見て、長安への撤退を考え始めていた。
これが司馬乂を主人公にした物語であれば、連合軍を撤退させて大勝利で終わっていたかもしれない。
しかし、現実は漫画やアニメのようなフィクション作品ではなかった。
洛陽城内で司馬乂と同じ朝廷側にいた東海王・司馬越(しばえつ)は、兵糧不足を見て「このままでは勝ち目がない」と判断した。
そして夜中に殿中の諸将と謀り、司馬乂を捕らえて金墉城に幽閉し、連合軍に降るため城門を開いてしまったのである。
ところが、いざ城門を開いてみると敵である張方の軍もすでに疲弊し、撤退寸前の状態だった。
これを知った朝廷軍の将兵たちは大いに後悔し、司馬乂を救い出して再び戦おうとする空気が生まれる。
司馬越にとって、それは極めて危険な流れだった。
司馬乂が復帰すれば、彼を捕らえて幽閉した責任を問われかねない。かといって自ら司馬乂を処刑すれば、城内の将兵の反発をさらに招く恐れがあった。
そこで司馬越は張方に司馬乂の身柄を知らせ、張方は部下を送って司馬乂を連れ出させた。
そして司馬乂は、張方の陣営で焼き殺されてしまったのである。

画像 : 焼かれる司馬乂 イメージ 草の実堂作成(AI)
その場には無実を訴える司馬乂の声が響き渡り、敵であったはずの張方の兵士たちでさえ涙を流したという。
司馬乂を排除した司馬越は、やがて権力争いの主導権を握っていく。しかし、八王の中で司馬乂ほど朝廷への忠誠を評価された人物は、もはや残っていなかった。
八王の乱の結末
その後、司馬穎、司馬顒、皇帝の司馬衷、そして司馬越といった当事者たちは、311年までに次々と望まぬ形でこの世を去る。
さらに晋も316年に滅亡し、誰も幸せにならない結末となった。
余談だが、司馬越に捕らえられた直後、司馬乂は司馬衷に上奏文を残している。
「私は自分の命など惜しくはありません。ただ、晋が衰え、陛下が孤立することを憂いています」
晋は、まさに司馬乂が恐れた通りの道を進んでいった。
八王の乱唯一の希望であった司馬乂は、目の前にあったはずの勝利を味方の裏切りによって奪われ、28歳の短い生涯を閉じた。
誰からも尊敬され、文武に秀でた男の死は、崩壊寸前だった晋を建て直す最後のチャンスだったのかもしれない。
それぞれが足を引っ張って晋を滅亡に導いたため、八王には厳しい評価が目立つが、司馬乂だけは最期まで晋と司馬衷に尽くしたその生き様を称賛されている。
参考 : 房玄齢ほか『晋書』卷五十九 列伝第二十九 長沙厲王乂・成都王穎・河間王顒・東海王越 他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部























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