劉邦に愛された戚夫人

画像 : 項羽と劉邦 public domain
紀元前206年頃、秦が滅亡すると項羽と劉邦による楚漢戦争が始まった。
この争いに勝利し紀元前202年に前漢を建てたのが、高祖・劉邦(りゅうほう)である。
劉邦はもともと沛県の亭長という下級役人だったが、秦末の混乱の中で頭角を現し、やがて項羽を破って皇帝の座に上りつめた。
その劉邦の晩年に、深く寵愛された女性がいた。戚夫人(せきふじん)である。
戚夫人の出自や劉邦と出会った時期ははっきりせず、彼女がどのような経緯で劉邦のそばに入ったのかは明らかではない。
ただ、『史記』呂后本紀には、戚夫人が劉邦の外出にもしばしば付き従ったことが記されており、特別に寵愛されていたことがうかがえる。

画像 : 劉邦と戚夫人 イメージ
戚夫人は、劉邦との間に如意(にょい)という男子を産んだ。如意はのちに趙王(ちょうおう)に封じられ、劉邦からもかわいがられた。
戚夫人は皇后ではなかったが、皇帝の寵愛を受け、その子まで愛されたことで、後宮の中で無視できない存在となっていったのである。
皇太子をめぐる呂后との対立
その寵愛は、やがて皇位継承の問題へとつながっていく。
劉邦は晩年、すでに皇太子となっていた劉盈(りゅうえい)を廃し、戚夫人の子である如意を立てようとしていた。
劉盈は皇后・呂后(りょこう)の子であり、のちの恵帝である。
実際に劉邦は、劉盈については「自分に似ていない」と考えており、如意については「自分に似ている」と周囲に語っていた。
そして戚夫人もまた、如意の立太子を強く望んでいた。
『史記』によれば彼女は日夜泣きながら、如意を皇太子に立てるよう劉邦に求めたという。
一方、呂后にとって、この動きはきわめて深刻だった。

画像 : 呂雉(呂后)public domain
呂后は劉邦の正妻であり、皇后の地位にあった。しかし、もし劉盈が皇太子の座を失えば、彼女は次代の皇帝の母という立場を失うことになる。
しかも呂后は晩年には宮中に留まることが多く、戚夫人のように劉邦のそばへ付き従う機会も少なく、次第に疎んじられていく有様だった。
しかし劉邦の太子交代の考えに対しては、多くの大臣たちが反対した。
なかでも後世に名軍師として語られる張良は、劉邦が高く評価していた隠者たちを皇太子の側につけるよう呂后に助言している。
酒宴の席で、白髪の老人たちが劉盈に従っているのを見た劉邦は、皇太子の背後にすでに人望があることを知り、太子交代を断念したとされる。
こうして劉盈の皇太子としての地位は守られた。
だが戚夫人が如意を立てようとし、一時は皇太子の座に迫ったことは呂后の中に強い恨みとして残った。
「人彘」と呼ばれた凄惨な報復
紀元前195年、劉邦が崩御すると皇太子だった劉盈(恵帝)が即位した。
この時、戚夫人の子・如意はすでに趙王となっており、母と離れて趙の地にいた。
新たに皇太后となった呂后は、かつて皇太子の座を脅かした戚夫人と如意に対し、ただちに報復へ動いていく。
『漢書』外戚伝によれば、呂后はまず戚夫人を※永巷(えいこう)に閉じ込め、髪を剃らせ、首に鉄の枷をつけ、囚人のような赤い衣を着せて米をつかせたという。
※永巷とは、漢代の宮廷内で罪を得た后妃や宮女を収容・使役した場所。

画像 : 永巷に幽閉された戚夫人イメージ
かつて劉邦に寵愛された戚夫人は、一転して罪人のように扱われ、米をつきながら如意を思って歌をうたったと伝えられている。
子為王,母為虜,終日舂薄暮,常與死為伍。相離三千里,當誰使告女。
意訳「子は王となり、母は虜となった。日が暮れるまで米をつき、死と隣り合わせにいる。三千里も離れたわが子に、誰がこのことを知らせてくれるのか」
『漢書』外戚伝より
この歌を聞いた呂后は、戚夫人がなお如意を頼みにしていると受け取り、さらに怒りを募らせた。
呂后は、趙王となっていた如意を長安へ呼び寄せようとした。
しかし、趙の相であった周昌(しゅうしょう)は、呂后が戚夫人と如意を殺そうとしていることを察し、如意が病であるとして使者を追い返した。
そこで呂后は、まず周昌を長安へ召し出した。
周昌が趙を離れると如意を守る者はいなくなり、呂后はあらためて使者を送り、如意を長安へ呼び寄せたのである。
恵帝は呂后の怒りを知っていたため、如意を自ら迎えに出て寝食をともにし、母から弟を守ろうとした。
だがある朝、恵帝が狩りに出かけたとき幼い如意は早く起きることができず、一人で宮中に残された。
呂后はその隙を逃さず人を使って毒を飲ませ、恵帝が戻った時には如意はすでに死んでいた。
わが子を失った戚夫人には、さらに凄惨な処置が加えられた。
呂后は戚夫人の手足を断ち、目をえぐり、耳を焼き、声を出せなくする薬を飲ませたうえで厠の中に置いたという。
そしてその姿を「人彘(じんてい)」と呼ばせた。「彘」とは豚を意味する。
かつて劉邦に愛され、わが子を皇太子にしようとした戚夫人は、人としての姿も尊厳も奪われてしまったのである。
見世物にされた寵姫と、崩れた若き皇帝
戚夫人に凄惨な処置を加えた後、なんと呂后はその姿を恵帝に見せつけた。
恵帝は最初、それが誰なのかわからなかったが、戚夫人だと知ると大声で泣き、そのまま病に伏してしまった。
恵帝は呂后に対し「これは人のすることではありません。私は太后の子である以上、もう天下を治めることはできません」と訴えたという。
この出来事は若い皇帝の心を深く傷つけ、恵帝はその後、酒色にふけって政務を顧みなくなる。
それから約6年後の紀元前188年、恵帝は在位7年で二十代前半の若さで崩御した。
その後、呂后は皇太后として政治の実権を握り、呂氏一族を王に立てるなど、一族とともに権勢を誇った。
しかし紀元前180年に呂后が死去すると、陳平や周勃ら功臣たちはただちに動き、呂氏一族を粛清した。

画像 : 文帝(劉恒)第5代皇帝 public domain
そして皇帝に迎えられたのは、劉邦の子である代王・劉恒(りゅうこう)であった。のちの文帝である。
劉恒の母・薄姫(はくき)は後宮にいた女性だったが寵愛されていなかったため、劉邦の死後は呂后の怒りを受けずに、息子に従って代の地へ出ることを許されていた。
結果として、最も寵愛された戚夫人と如意は殺され、宮廷を支配した呂后一族も滅ぼされ、権力争いから遠い場所にいた薄姫の子が前漢の皇位を継いだのである。
参考 : 『史記』呂后本紀、『史記』外戚世家、『漢書』外戚伝 他
文 / 草の実堂編集部

























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