はじめに
信長は、快く湯漬を喰べ終ってから、その勝栗を二つ三つ掌に移して、ぼりぼり喰べ、
「馳走であった。……さい。あの小鼓をこれへよこせ」
鳴海潟とよぶ信長が秘蔵の小鼓であった。さいの手からそれを取ると、信長はそれを肩に当てて、二つ三つ手馴しに打って見て、
「鳴るわ。四更のせいか、常よりもいちだんと冴えて鳴る。……さい、儂が一さし舞おう程に、そなた、敦盛の一節をそれにて調べよ」
「はい」
素直に、さいは小鼓を、信長の手から押し戴いて、調べはじめた。
しなやかな白い掌から、鼓の音は清洲城の広い間ごとへ、醒めよ醒めよとばかり高鳴った。
「……人間五十年、化転のうちをくらぶれば」
信長は立った。
立って、水の如く、静かな歩を運びながら、自身、小鼓の調べにあわせて朗吟した。
「……化転のうちを較ぶれば、夢まぼろしの如くなり、ひとたび、生をうけて、滅せぬもののあるべきか」
いつになく、彼の声は、朗々と高かった。今をこの世の声のかぎり――と、謡うように。
吉川英治「新書太閤記」、今川義元との桶狭間の戦いへと出陣する織田信長の描写である。
「人間五十年」と、謡(うた)い舞う織田信長のイメージは日本人の誰もが共有するところであろう。
だが、これは後の時代の創作に過ぎないのではないか。本当に織田信長は「人間五十年」と謡(うた)ったのであろうか。
「敦盛」の舞とは何か
そもそも信長が謡った「敦盛」とは何か。「敦盛」とは「平敦盛」、一の谷の合戦で熊谷次郎直実に討たれたとされる、平家の公達の名である。
平家の公達についての舞となれば、まずは「平家物語」を見るのが順当であろう。
「平家物語」(覚一本)の巻九「敦盛最期」を参照する。
だが、ここには「人間五十年」という文言はない。
ならば「謡う」というからには「謡曲」ではないか。謡曲とは言わば「能の脚本部分」である。能ならば確かに舞うではないか。
確かに「謡曲〈敦盛〉」というものが存在する。
だが、残念ながらここにも「人間五十年」という文言はない。
実は「人間五十年」という文言が現れるのは「幸若舞」の「敦盛」であった。
「幸若舞」
は、室町時代から江戸時代にかけて隆盛した芸能の一つで、「平家物語」「曾我物語」などの軍記物語を元ネタとしているものが多い。
「舞の本」で「幸若舞」の詞章は読むことができる。
「人間五十年」の文言は、息子ほどに若い平家の公達である敦盛を討った熊谷が、菩提心を起こして出家を決意する場面に出て来る。
「人間界の五十年は、化楽天の八千歳に比べると夢幻のようにはかない」という意味の言葉である。
「信長公記」の記述
「信長公記」は信長の近くで仕えていた太田牛一によるものであり、事実を客観的かつ簡潔に述べた史料的価値の極めて高いものとされている。
実は、その「信長公記」に、今川義元との合戦に臨む際に、信長が「敦盛」の舞を披露した旨がはっきり書かれている。
これを鑑みれば、信長が「人間五十年」と謡い舞ったことは紛れもない事実である、としても良さそうなのだが、ここにひとつ疑問の余地がある。
「幸若舞」はそんなにも武士の間に浸透していたのだろうか、ということだ。
この疑問は解決しておいた方が良さそうである。
立教大学・鈴木彰氏の研究
立教大学・鈴木彰氏は、2016年12月20日、法政大学市ヶ谷キャンパスで催された「軍記・語り物研究会」のシンポジウムにおいて、「幸若舞曲の時空」と題した研究発表をされている。
この研究発表の中で鈴木氏は、先行研究を踏まえて「幸若舞大夫が戦場にまで随行し、舞うこともあった」と示した上で、さらに「幸若舞曲をはじめとする語り物文芸が、16世紀から17世紀にかけての社会で共有されて、さまざまな理解や価値観のかたちに影響を及ぼした力は、決して軽視できるものではない」として、様々な資料を提出され、論証を行われた。
中でも島津の「山田聖栄自記」が多数の幸若舞(曲舞)からの引用を用いていることに着目して、幸若舞の伝播、地域での受容のあり方を丁寧に論証された。
鈴木氏の示されていた資料の一部をここで紹介する。
「山田聖栄自記」は島津家の歴史を述べた書である。この中では、島津忠久が頼朝の庶長子であることが述べられているのだが、鈴木氏は、その頼朝に関する記述に着目する。
この部分、「曾我物語に見える内容だ」と筆者である山田聖栄は述べているのだが、いわゆる「曾我物語」という書物の記述と、頼朝の持ち物が違っている。
「山田聖栄自記」では長刀であるとこころが、「曾我物語」では御帯刀(貴人の持つ太刀のこと)になっているのである。
そして鈴木氏は、頼朝が長刀を持っている描写が見出せるのは幸若舞の「十番切」であることを指摘された。
「山田家の当該記事は、のちに幸若舞曲『十番切』と呼ばれることになる語り物を踏まえた可能性は高い」と鈴木氏は述べる。
地方の武士にまで幸若舞が普及していたことが推し量られる例のひとつである。
また、島津氏とその家臣たちの朝鮮出兵の様を描いた「征韓録」の冒頭に引用された秀吉朱印状(軍勢催促状)においても、幸若舞曲「大織冠」の一節が引用されている事実をも指摘された。
「幸若舞」の当時の武士階層への影響力の大きさがわかる。
以上の鈴木彰氏の研究発表を踏まえると、やはり「信長が幸若舞の敦盛を、合戦を前にして謡い舞った可能性は極めて高い」と言える。(なお、この記述が「信長公記」の筆者たる太田牛一の創作ということも考えられなくもないが、もしそうであるなら、武士階層への幸若舞の普及浸透ぶりが、より一層強調されることになるだろう。)
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