はじめに
今川氏は京の将軍家の家系である。今川氏親が死去すると、今川氏輝が跡を継いだが、その後、急死した。当時出家していた玄広恵探と梅岳承芳が争った「花倉の乱」で、梅岳承芳が勝利し、還俗して今川義元と名乗った。
太平記英勇伝三:今川治部大輔義元(落合芳幾作)
今川義元は、後世からお歯黒をつけた都の貴族のような人として伝えられ、そのような印象を持っている人が多いと思われる。大河ドラマなどでも都の貴族のような恰好をしている姿で登場することが多い。財力があったため、都の貴族が今川氏を頼ったていたり交流があったりしたことが、貴族のような人物と評価される要因になったといわれている。
実際に史料に残っている戦国大名の一面を持った今川義元、桶狭間の戦いの敗北までの織田信長と今川義元との戦いについて取り上げたい。
今川義元の領国経営と集団戦法
今川義元の戦国大名としての一面として、領国経営と集団戦法について取り上げたい。今川義元の2代前今川氏親の頃に分国法である『今川仮名目録』ができていたといわれている。
この分国法が、のちの今川家の領国経営に生かされていたといわれ、近隣の甲斐の国などに影響を与えたといわれている。今川義元は駿河国の分国法である『今川仮名目録』を引き継ぎ、領国経営を行った。同時に、今川義元の戦に備えた組織改革も行った。
(1)領国経営
今川義元は戦に備えて多くの兵を動員できるように、「寄親・寄子」という組織を作る。寄親とは今川家に仕える家臣で、家臣の領国にいる農民を寄子という。今川義元の配下で、寄親・寄子という指揮系統を作り、大量の兵を動員することに成功した。
当時、農民の多くは強制的に戦に狩り出されているという意識で、「組織の一員である」という意識が乏しかったといわれている。義元は農民のこのような意識を変えるために、戦に貢献すれば、年貢の免除や土地を新たに与えるなど褒美を与えたという史料が残っている。
(2)集団戦法
農民を戦に動員して、統率がとれるようになったことで、戦に勝ち続けたといわれている。
義元は、1548年の小豆坂の戦いで織田信秀を破り、三河国まで領国を広げた。この小豆坂の戦いの後に安祥城を落としたが、この城を落とす際、種子島で伝えられてわずか数年しか経っていない頃に鉄砲を使った集団戦法で勝ったことが記録として残っている。
鉄砲を使った集団戦法といえば、織田信長の長篠の戦いが最初であるとい通説があるが、今川義元が織田信秀と戦っていたころに既に鉄砲が使われていたことが分かった。織田信秀は小豆坂の戦いの後、病気で死去し、若い織田信長が引き継いだのだ。
今川義元と織田信長の戦い
(1)織田信長の組織改革
織田信長は19歳で家督を継いだ。弟の信行との家督争いで勝ったばかりであり、19歳という若さであったことで、心から従っていた家臣は少なかったといわれている。そのため、今川義元のような領国経営を手本にしようとしたが、実際は厳しかったようだ。
信長は家臣の次男・三男以下に注目した。当時の武士の次男・三男以下はニートに近い状態で、仕事がない若者がいた。意欲のある若者と交流して、彼らによる精鋭部隊を作ったのだ。その精鋭部隊の中から前田利家や滝川一益、百姓の中では木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が台頭した。
また、信長は家督を継いでから、鉄砲を調達し、鉄砲の性能を最大限生かした戦をすることになる。
(2)今川義元の信長に対する警戒
信長14歳の初陣。今川義元との戦いで、今川の一部の兵が駐留していた港町に信長は夜通し火を放ち、今川を敗走させたことがあった。この出来事が今川義元が信長を警戒するきっかけになったといわれている。
織田信秀の死去で今川義元が混乱しているタイミングを見計らって、信長は尾張国への進軍を開始した。尾張国と三河国の境目に村木城という砦を作り、尾張に勢力を伸ばす拠点にすることを考えた。
信長は村木城を落とす際、鉄砲を絶え間なく撃つとともに若者たちが果敢に戦ったことで義元が兵を引いた。この敗北と信長への警戒が桶狭間の戦いで3万人の兵を動員したきっかけになったと考えられる。
組織力の崩壊と、桶狭間の戦いでの敗北
義元は調略によって織田の城を寝返らせることにも成功した。義元は3万の兵を分散する戦法をとったことで、織田方の砦を落とした。これが桶狭間の戦いの始まりである。
しかし、勢力を分散させたことで、寄子が油断し、寄親にまで気の緩みが広まり、寄親・寄子という組織力が崩れてしまう。義元の本陣にまで油断が広まったともいわれている。
桶狭間の戦いで義元が討ち取られた後、今川氏真が跡目を継いだ。三河国は松平元康(後の徳川家康)が独立し、駿河国は武田信玄に攻められ、駿河の今川氏は滅んだ。
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