ここでは、2代目将軍徳川秀忠の後を継いで、1623年から江戸幕府3代目将軍になった徳川家光について取り上げる。まず、徳川家光の人柄から取り上げる。次に、徳川家光の政治面での実績と農民への統制、寛政期の文化について取り上げる。
徳川家光について
1604年に2代目将軍徳川秀忠の次男として生まれた。家光の兄弟に松平忠長がいたが、素行が悪く問題を起こしていたことから、跡目争いから外れたため、3代目将軍になった。3代目将軍徳川家光のころから江戸幕府の基礎が固まったと言われている。
徳川家光には、既に正室の妻がいたが、子供が誕生しなかった。このことに危機感を持った春日局(家光の乳母)が大奥を作り、家光の好みの女性を集め、子供をつくることに成功した。
※千代田之大奥 歌合 橋本(楊洲)周延画
以降、女性が集まる場所を大奥と呼ぶようになったと言われている。
鎖国と幕藩体制の確立へ
ここでは、徳川家光の代で完成する鎖国と幕藩体制について取り上げる。
まず、外国との関係について、徳川家康が江戸幕府を開いてから2代目将軍徳川秀忠まで、外国との貿易は積極的に行っていた。当時の貿易船については朱印船とか奉書船と呼ばれていた。また、東南アジアには日本人町ができていたと言われている。
貿易が盛んにおこなわれていたが、徳川家光のころになると貿易だけでなく、全国でキリスト教の布教も禁止するようになる。
1637年から1638年にかけて、キリシタンの農民が天草領主の寺沢氏と島原領主の松倉氏の圧政に反抗して、天草四郎時貞を首領としてを起こす。
この一揆で江戸幕府は12万もの兵を動員して半年かけて鎮めた。この反乱をきっかけにキリスト教を警戒して禁教を徹底し、鎖国体制に向かった。(※ただし鎖国という言葉や概念はこの当時にはまだなく18世紀後半から)
一方で、国内では江戸幕府の象徴と言われている幕藩体制が、3代目徳川家光の代で確立してくる。幕藩体制とは幕府が藩を通して農民を支配する政治体制である。キリスト教でないことを証明するために、寺の檀家にすることで統制したと言われ、檀家制度の始まりであると言われている。
また、農民に対して、田畑を勝手に売って農民が没落するのを防ぐために、1643年に田畑永代売買禁止令を出した。その後、家光が死亡する直前に農民の生活習慣を制限する法律として慶安の御触書(百姓に対し贅沢を戒め農業や家業に精を出すよう求めた内容)を出したことでも知られている。
以降、農民に対する新たな統制については、4代目将軍徳川家綱の代に引き継がれている。
3代目徳川家光の代で制定された武家諸法度寛永令では、諸藩を統制するために、大名の妻子を江戸に人質として残したうえで、1年おきに江戸と国元を往復する参勤交代制度を始めた。
おわりに、寛政期の文化
江戸時代は幕藩体制が確立したことに伴い、町人を中心とした文化が栄えた。江戸時代の最初の文化としては、3代目将軍徳川家光の頃に栄えた寛永文化である。
寛永期の文化の特徴として、建築・絵画・工芸については桃山文化の特徴を引き継いでいる。
具体的な作品として、日光東照宮が挙げられる。当初、徳川家康は久能山に祀られていたが、家光の代で日光東照宮に移された。日光東照宮の建築は権現造と言われ、現在世界文化遺産に登録されている。
安土桃山時代には狩野派で知られる狩野永徳が活躍していたが、江戸時代の寛永期には狩野探幽が引き継いでいる。他に有名な作品として風神雷神図屏風の俵屋宗達、船橋蒔絵硯箱の本阿弥光悦が挙げられる。
※風神雷神図(建仁寺蔵)
学問では、儒学者の藤原惺窩(ふじわらせいか)が徳川家康の侍講(じこう※君主に対して学問を講義する)として仕えたが、藤原惺窩が弟子の林羅山(はやしらざん)を推薦したことにより江戸幕府の終わりまで林氏が侍講として仕えることになる。
林氏が儒学者として仕え、学問が盛んになったことから江戸幕府周辺の学問所が後の東京大学の前身になったと伝えられている。
ここでは徳川家光の代で幕藩体制の確立と学問と文化が栄えたことについて取り上げた。次は幕府政治の転換点となる4代目徳川家綱以降の政治について取り上げたい。
徳川15将軍シリーズ:
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯
徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった
徳川家光【徳川3代目将軍】―幕藩体制確立を目指して
徳川家綱【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換
徳川綱吉【徳川5代目将軍】ー学問を奨励と生類憐みの令
徳川家宣・徳川家継【徳川6、7代目将軍】ー新井白石による政治改革
徳川吉宗【徳川8代目将軍】ー享保の改革
徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治
徳川家斉【徳川11代目将軍】松平忠信による寛政の改革
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】
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