西郷隆盛 という人物はとにかくスケールの大きな人物だと伝わっている。
そんな男から薫陶を受け、それを次世代へ伝えていった人物も少なくない。彼等も時代に大きな足跡を残している。
西郷従道 (さいごうつぐみち)
[画像.西郷従道]
後に小西郷と呼ばれ、兄に並ぶ人物と称えられた弟の従道。幼い頃、島津斉彬(なりあきら)の元に茶坊主として仕えていた。
これは主君が茶道の接待をするときなどの世話をする役職である。斉彬亡き後の文久元年(1861年)9月、還俗して尊王攘夷運動に身を投じた。その翌年には討幕運動のために京に集結した有馬新七らの一党に加わったが、寺田屋事件が起こり弾圧されることになる。このときの従道はまだ若かったため、鹿児島に戻されて謹慎処分で済んだ。だが、文久3年(1863年)薩英戦争が起きると禁新は解除される。
この戦いでは、西瓜売りに扮して英国艦にもぐり込もうとしたり、同年の8月には赦免が決まった兄を迎えに沖永良部島まで行っている。その後、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争を戦い抜いた従道は、維新後も軍事知識を身につけて山縣有朋とともに陸軍の改革にあたった。
陸軍中将時代に起きた西南戦争では薩摩に加担することなく、その後も政府の要職を歴任し、海軍大臣にまで昇進する。従道も兄と同じく、細かい事務仕事に関しては部下に任せて自らはほとんど口を出さずにいた。
それでいて、失敗した場合の責任は自分が取るという度量の大きな人物であった。
大山巌(おおやまいわお)
[画像.大山巌]
大山巌は西郷隆盛・従道の従兄弟にあたる。実家が西郷家と同じ下加治屋町であったため、幼少のころから西郷の世話になり、その薫陶を受けていた。薩英戦争の際は、英国艦を乗っ取る目的の決死隊にも志願している。このとき、西洋列強の軍事力に衝撃を受け、黒田清隆らと江戸の江川塾で西洋砲術を学んでいる。
戊辰戦争が始まると、二番砲兵隊長として、鳥羽・伏見の戦い、宇都宮城攻撃、白河城の戦い、そして会津戦争と転戦した。しかし、会津では敵弾を受けて負傷。維新後は渡欧して普仏戦争などを視察、さらに再度渡欧してジュネーブに留学するなど、熱心に欧州の文化を吸収する。西南戦争では、攻城砲隊司令官として西郷が立て籠る城山攻撃を指揮したのだが、大山は生涯このことを気に病み、その後はニ度と鹿児島の土を踏むことはなかった。
大山はずっと大日本帝国陸軍の発展に力を注ぎ、日清戦争では第2軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を拝命。どちらの戦いでも日本の勝利に大きく貢献する一方、その人柄は多くの人に愛された。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
[画像.東郷平八郎]
東郷の実家は、西郷家と同じく下加治屋町にあった。東郷は14歳になると元服して薩英戦争に参戦している。戊辰戦争の折りには春日丸に乗り込み、新潟から函館へと転戦し、阿波沖海戦や宮古湾海戦を経験した。
戊辰戦争後は鉄道技師を志して大久保利通にイギリスへの留学を願い出る。すると大久保は「お前はおしゃべりだから」という理由でこれを断り、代わりに西郷が「海軍軍人を目指すのならば許可してやろう」ということで、官費での留学を認めてくれた。西郷との約束を果たすため渡英した東郷は王立海軍兵学校への入学を希望したが、これはイギリス側の事情で入校できず、代わりに海軍予備校バーニーズ・アカデミーを経て、商船学校ウースター協会に就学することとなる。
これは海軍軍人としての王道からは外れていたが、そこでは商事や国際法を身につけることができ、日清戦争時の「高陞号(こうしょうごう)撃沈事件」で大いに活かされた。
日本の連合艦隊がイギリス商戦を撃沈させた事件である。だが、帰国した時にはすでに西南戦争はすでに終結しており、「国内にいれば西郷軍に参加していた」と述懐している。
川路利良(かわじとしよし)
[画像.川路利良]
川路利良が西郷隆盛や大久保利通の信頼を得たのは、元治元年(1864年)に起きた禁門の変でのことだ。
川路はこのとき長州藩の遊撃隊総督であった来島又兵衛を狙撃で倒すという戦果を挙げた。その後は、江戸で西洋兵法を学び、戊辰戦争時は御兵具一番小隊長に任ぜられる。
さらに戊辰戦争での功績が認められ、維新後は兵具(兵器)奉行を拝命、明治4年(1871年)には西郷に従い上京し、東京府大属となって権典事、典事に累進した。その翌年には「邏卒総長(らそつそうちょう)」に就任し、西欧視察団の一員として欧州各国の警察制度を視察する。帰国後はフランスの警察制度を参考にして日本の警察制度を確立し、明治7年(1874年)には警視庁創設とともに初代大警視(現・警視総監)に就任した。
川路は執務が終了した後も、自ら東京中の警察署や派出所を巡回していたという。明治10年(1872年)には、西郷や私学校の動きを探るため、鹿児島出身の警察官を帰郷させた。しかし、この行動は西郷暗殺部隊とされ、西南戦争勃発の要因となる。
なお、和月伸宏のマンガ「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」では大久保利通、斎藤一(藤田五郎)とともに実名で登場している。
最後に
西郷のDNAを受け継ぐ者はこれだけではない。
西郷の息子で、日清戦争後に日本領となった台湾においてインフラ整備に力を注いだ「西郷菊次郎」。
同じ下加治屋町で育ち、西南戦争では熊本城を死守し、日清戦争では予備役だったが、すぐに現役復帰して戦った「樺山資紀(かばやますけのり)」。
戊辰戦争では幕府軍として見事な戦いぶりをみせながらも新政府軍に降伏後、その戦いぶりに共感した西郷によって軽い処罰に済んだ「酒井忠篤(さかいただずみ)」。忠篤は、そのことに感動し、鹿児島に移り住むと西郷から直接教えを受けている。
このように西郷の志は多くの人物へと受け継がれたのだ。
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