日本における占いの歴史は古い。
我々がよく知るところでは、平安時代の陰陽師「安倍晴明」が陰陽五行説をもとに吉凶を占っている。
時代が下り、江戸時代になると、都市計画に占いを取り入れると共に幕府が推進したのが学問の奨励および体系化であった。
そして、天文学や暦の見直しも注力された。
日本独自の暦へ
【※渋川春海『天文大意録』】
天文学の知識が高まってくると、それまで800年間も続いてきた中国式の宣明暦(せんみょうれき)が、実際の日食や月食などの天の動きと合わないことが問題となる。
これを解決したのが渋川春海(はるみ)だった。
渋川は幕府公認の囲碁名人でありながら、神道に精通した天文暦学者でもあった。天体を日夜観測し、そのデータをもとに授時暦(中国の暦)を日本向けに改良して大和暦を作成。それを受けた5代将軍・徳川綱吉は改暦の命を下す。これが紆余曲折を経て朝廷にも採用され、貞享(じょうきょう)2年(1685年)から貞享暦として改暦された。
この実績が認められ、渋川は幕府が新設した「天文方」に任命され、暦計算を行うことになる。そして、新製渾天儀(ごんてんぎ)を始めとする観測器や天球技・地球儀などを製作したほか、天文書や暦書、星図などを著わすのであった。
陰陽寮の力が弱まる
【※葛飾北斎画『鳥越の不二』 浅草天文台にて】
天明2年(1782年)、その観測所である浅草天文台が完成。
この時期の天文学者としては、高橋至時(よしとき)や間重富(はざましげとみ)が有名である。測量家として知られる伊能忠敬も、この浅草天文台で高橋至時から天文学や測量学を教わった。伊能はのちに日本地図を完成させるが、その基礎知識が天文方で培われたのだ。天保13年(1842年)には九段坂上に天文台がもうひとつ設置されて天体観測に使われ、この観測は明治2年(1869年)に廃止されるまで続いた。
さて、幕府天文方では、毎年の暦編纂の他にも天変地異があれば占いをして幕府に報告する役割を担っている。これは、それまで陰陽寮の天文博士が行っていた朝廷に対する天文占いの精度を改良しようというもので、幕府の方がより正確な情報を得ているとして、陰陽寮の権限を弱める結果にもなった。
戦国時代から江戸時代にかけては、安倍晴明から続く土御門(つちみかど)家となり、陰陽頭(おんみょうのかみ)を世襲していたが、朝廷の力の衰えと共にその影響力も弱まっていた。
民間に流れる陰陽道
その一方で、陰陽道および、その教えを伝える陰陽師が民間へと出てゆき、占い師、祈祷師として活躍するようになった。安倍晴明のライバルともいわれる蘆屋道満も陰陽師でありながらフリーランスの身だったことを考えると、それ以前にも民間の陰陽師はいたと思われる。ただ、なかにはろくに陰陽道を学ばず、でたらめを行う金銭目的の者も多くいたようだ。
幕府はそうした状態を野放しにしないよう、土御門家に民間の陰陽師に免状を与える権利を与えた。陰陽道は政治の世界に影響を及ぼすことはなくなったが、民間信仰として日本社会へと広まったのである。
市井では、万葉集にも登場した辻占(つじうら)が江戸時代になっても廃れることなく続いていた。辻占とは、本来は夕方に辻(交差点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を神の宣託だと考え、それをもとに占うものである。なぜ、夕方かといえば、暗くなれば誰がどんな言葉を話していたのかが判別しづらく、主観的な考えが入りづらいためでもある。
辻占煎餅
【※辻占煎餅を焼く様子】
また、それが発展したものが屋台で売られた「辻占煎餅(つじうらせんべい)」である。
これは薄く焼いた煎餅の中におみくじを挟んだもので、かじると運勢が分かるというユニークな菓子である。明治になっても売られていたようで、動物学者のエドワード・モースは「ある種の格言を入れた菓子。糖蜜で出来ていてパリパリし、味は生姜の入っていないジンジャースナップに似ていた。私は子供の頃にアメリカで同様な仕掛けを見たことを覚えている」と日記に書いている。
これはアイドルグループAKB48の歌にもなった「フォーチュンクッキー」の原型といえよう。今も昔も、また外国にも同じような食べ物や占い文化があったのは興味深い。また、煎餅以外にも昆布、豆、かりんとうなどを使う辻占菓子もあった。
明治維新と占い禁止令
江戸時代、街々に多彩な屋台が並んでいたことは有名だが、辻占と同様に人々の気を引いたのが「人相見(にんそうみ)」だろう。もともとは顔相、骨相、体相など、人体のつくりから性格や運勢を割り出すもので、もっぱら顔相のことをいう。
当時書かれた「塵塚(ちりづか)物語」には、源義経が鞍馬山の天狗から相伝されたとされる「兵法口舌気(ひょうほうくぜっき)」の中にも人相術があったとする。また、室町時代に記された「先天相法(せんてんそうほう)」も知られる。
明治維新により、迷信や呪術を追放する政策が推し進められ、明治5年(1872年)に新政府は陰陽道を迷信として廃止させた。
続いて明治10年(1877年)「庶民を幻惑している」として占い禁止令が各府県に通達され、厳重な取締りが行われた。しかし、そうしたなかでも人々の間に占いの熱は醒めやらず、様々な形で今に伝わっている。
最後に
民間信仰の占いは明治になって表向きは下火になるが、天文方は「気象台」として姿を変えて生き残った。幕臣(旗本)から天文方の流れを組む中央気象台長(初代)となった荒井郁之助(あらいいくのすけ)は、戊辰戦争では榎本武揚や土方歳三らとともに戦ったが、釈放後は明治政府に重用され、日本初の皆既月食の観測に成功する。
そして、明治23年には初代気象台となった。
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