歴史を紐解くとき、切っても切れないのは「墓」である。
時に祀り、時に恐れの対象となってきた。古代の墓は、当時の暮らしを知る手がかりともなる。
今回は、日本にある「日の当たらない墓」を見てみよう。
吉見百穴
[ 吉見百穴 全景]
埼玉県のほぼ中央、凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)の岩盤に広がるおびただしい数の横穴。いずれも直径はおよそ1mで、その数は現在、219個と公式にアナウンスされているが、未発見の横穴もまだ残っているかもしれない。
これは古墳時代の終わり頃(6~7世紀)に掘られた横穴墓である。ほとんどの横穴の壁面には10~20cmほどの棚状の段が確認されており、ここに遺体を安置したというのが通説となっている。なお、穴によっては2つの段が設けられているものもあり、複数の遺体を納めることもあったようだ。
なお、3~4世紀に見られる縦穴式の墳墓では、その構造上、一度古墳として造営されたあとに再び中へ立ち入ることが難しく、同じ墳墓に追葬することは実質的に不可能であった。ところが 吉見百穴に見られる横墳墓では、入り口部分に蓋が立てられ、造営後の出入りを可能とする構造だったことが分かっている。
つまり、 吉見百穴は墳墓の進化の歴史を語る遺構でもあるわけだ。
まんだら堂跡
【※まんだら堂やぐら群】
山々に囲まれた立地である鎌倉への陸路の入り口を表す「鎌倉七口」のひとつに、「名越切通(なごえきりどおし)」がある。三浦半島へのルートを確保する要衝で、その周辺には防衛上、重要な役割を果たしたと考えられる平場や切岸(人工的に造られた断崖)が確認できるほか、葬送に関する遺構も多く発見されている。
やぐらとは、鎌倉時代から室町時代にかけて造られた横穴式墳墓のこと。この地には実に150個以上の穴が見られ、鎌倉時代の大規模霊園だったことが窺える。当時、この地には法性寺のまんだら堂が置かれたことが判明しており、この横穴墳墓は、『まんだら堂やぐら群』と呼ばれるようになった。
穴のサイズはおよそ2m四方で中には五輪塔が並んでいるが、これは現代に至る過程で動かされたものも多く、往時の詳しい様子は不明である。なお、周辺の平場では、岩盤を長方形に掘った火葬スペースの跡も発見されている。ここで焼いた骨をやぐらに納めていたのかもしれない。
チビリガマ
太平洋戦争末期、激しい地上戦が展開したことで知られる沖縄県では、軍属以外の一般人を巻き込み、20万人以上の犠牲者が出たとされる。その凄惨な戦禍の名残りが、現在の沖縄でも随所に見られる。住民たちが避難した防空壕もそのひとつだ。
沖縄では壕のことを地域の言葉で「ガマ」と呼ぶ。ガマの数だけ哀しい記憶が刻まれてるとはいえ、とりわけここで取り上げるチビリガマには、あまりに凄惨なエピソードが残されていた。
沖縄本島の西海岸から上陸を果たしたアメリカ軍が、その日のうちに近辺まで侵攻してきたことを受け、140人の周辺住民は一斉にこのチビリガマの中に非難した。迫る敵兵に恐れる人々は、見付かれば虐殺されると思い込み、壕内で恐怖に震えていたが、やがて自決を決意した人と、なんとか生き延びようという人との間で争いが起きる。その結果、83人もの人が自決を選んだ事実は、平和に生きる我々現代人には理解しがたいものかもしれない。しかし、それが戦争なのだ。
現在、ガマの中への立ち入りは禁止され、入り口の左手に参拝用の平和の象が設置されている。傍らには犠牲者の遺族たちによる、「ガマの中には私たち、肉親の骨が多数残っています」とのメッセージが。その思いとともに決して踏みにじってはいけない。訪れることがあったら、そっと手を合わせて冥福を祈ろう。
ヌヌマチガマ
沖縄に見られる多くのガマ(防空壕)と同様に、戦時中には自然の形状をそのまま利用していたが、近年になって入口部分に階段が整備されたのがヌヌマチガマだ。
病院壕として使われていたこのヌヌマチガマは、今はスタディーツアーの一環として、多くの見学者が訪れている。
交戦によって負傷した兵士を治療するために使われたこのガマは、全長およそ500mの大規模なもので、奥には手術台やかまどの跡が残っている。戦時中に収容された兵士の数はざっと1,000人を超える。軍医だけでは人手が足りず、近隣の白梅学徒隊の女学生らも召集されたという。
しかし、薬も設備も満足に揃えられない逼迫した状況下では十分な治療が行えるはずもなく、ここに配された女学生は主に、傷病兵の排泄物や切断した手足の処理など担ったという証言が残っている。
また、敵軍がいよいよ首里まで侵攻してくると、ガマ内の医師や患者は外に逃げたが、動けない傷病兵には自決のための青酸カリが配布されたともいう。ヌヌマチガマはそうした惨状を今日に伝える重要な役割を担っているのだ。
最後に
大きくふたつの時代に分けて「日の当たらない墓」を見てきた。前者は戦が日常的だった時のもの。後者は戦争によって日常を失った時のもの。
違いはあれど、戦いによって必要になる墓には哀しい思いしかない。そして、あなたのそばにもそうした墓はあるかもしれない。
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