歴史に名を残す人物には、影ながらそれを支えるブレーンがいた。特に「黒衣の宰相」と呼ばれる僧侶たちは、その知識をもって君主に大きな影響力を与えている。
そうしたなかの一人、「天海」は徳川家康の朝廷政策から江戸の街作りまで幅広く助言していた。
家康のもとへ
天台宗の僧というだけで、天海本人についての情報はあまりに不明な点が多い。
生まれ年、出自、そしてどのように育ったのかも推測だけで、確かなものは残っていない。故郷も会津だとされているが、ここでは触れないでおこう。
天正18年(1590年)、関東の覇者であった北条氏を豊臣秀吉の軍が包囲した「小田原攻め」の際には、江戸の浅草寺の住職と共に徳川家康の陣にいたことが史料に残されている。当時、天海は武蔵国(埼玉県川越市)にある、無量寿寺北院にいたことから、わざわざ小田原まで出向いたのだろう。
その後は、慶長4年(1599年)に同寺院の住職となり、寺号を喜多院(きたいん)に改めた。これは、平安時代の建立当時に「北院」「中院」「南院」があったことに由来する。
以後は、徳川家康の征夷大将軍就任や江戸幕府を開くのに合わせ、家康の右腕として篤い信頼を得ていた。主な仕事は朝廷との交渉や、徳川家の仏事に関するものだったが、実はそれは表の顔に過ぎない。
天海 の働き
さて、ここからは「推測・もしくは研究対象」としての話なのだが、実に興味深いので追ってみよう。
関ヶ原の合戦で勝利した家康は江戸に幕府を開くのだが、なぜ江戸を選んだのかという疑問がある。豊臣秀吉により江戸に所領を与えられていたとはいえ、家康の本拠地は駿河であり、江戸だと箱根を越えてさらに京都や大阪とは遠くなる。朝廷との交渉はもちろんのこと、大坂城には秀吉の妻・淀殿と子の秀頼がおり、西国に睨みを利かせるには向いていない。
そこで、登場したのが天海だった。
天海は、仏教だけでなく、古代中国の陰陽五行思想など、占いや方術にも長けており、その天海こそが江戸に幕府を開くよう、家康に進言していた。それは、天海が関東における地相を徹底的に調べ、江戸こそが本拠地に相応しいと判断したのである。
四神相応
家康が江戸に入った当初、町の東側は湿地帯で海岸線も江戸城の近くにあった。幕府を開いた家康は、そうした土地でありながら江戸の町を埋め立て運河を造り、やがて大都市となる礎を築いたのだ。
そのために天海が用いたのは、陰陽五行説にある「四神相応」という思想である。天の四方には霊獣が配され、さらにその霊獣には相性のいい環境があると考えられていた。
○東に青龍。川の流れ。
○南に朱雀。海や湖。
○西に白虎。道。
○北に玄武。高い山。
これに当てはめると東は隅田川、南は江戸湾、西に東海道、そして、かなりのズレが生じるが北に富士山が配されているのが江戸である。この配置ならば四神の加護を得ることができ、江戸は栄えると考えた。果たして、その後の江戸は知っての通り、百万都市となって栄えたのである。
ちなみに、この思想は平安京にも用いられていた。東は鴨川、南は富士山と同じように方角はズレているが琵琶湖、西に山陽道、そして、北には比叡山があり、今にいたるも日本の中心である。
寛永寺と増上寺
天海の設計はそれだけではない。
江戸城の鬼門にあたる北東には上野の「寛永寺(かんえいじ)」を開いて自ら住職となり、裏鬼門にあたる南西には芝の「増上寺(ぞうじょうじ)」があることから江戸城の守りとした。
また、日本橋の下を通る運河は江戸城へ荷物を運ぶためにも使用されたが、そこから見る江戸城のはるか背後には富士山が見えたという。
こうしたことも、天海の都市設計の計画のなかにあったのかもしれない。さらに驚くべきことは、天海が100歳以上(108歳とも)という長寿を誇り、家康・秀忠・家光の3代将軍に仕えていたことだ。
江戸城は天下普請(諸藩の財政を逼迫させるための公共工事)の名のもとに増改築を行い、結果、完成までに50年もの歳月を要したのだが、天海だけは設計から完成までを見届けた唯一の人間ということになる。
さらに江戸城の初期における設計にも、宗教的な側面から関わっていたようだ。
寛永寺の発展
初代君主・家康が亡くなると、天海は上野に建立した「上野東照宮」に家康を祀り、浅草の浅草寺(せんそうじ)にも家康を「東照大権現」として祀った。また、2代将軍・秀忠が亡くなったときも、増上寺に墓を建てて徳川家の菩提寺とした。
ただし、寛永寺が建立されたのは、3代将軍・家光の治世であり、関東に天台宗の拠点となる寺院を開きたいと考えていたことから、家康を祀ることで鬼門を封じ、同時にこの寺の住職になったわけだ。
もともと寛永寺の建立された土地は、藤堂高虎の江戸における中屋敷(藩邸)があった土地だが、そこを秀忠から与えられており、家光の時代に寺を建てたことになる。そう考えると天海は家康が生存していたときから寛永寺を現在の場所に建てることを計画していたように思える。
しかし、どのような思惑があれ、徳川家の帰依を受けた寛永寺は大きく発展し、増上寺と共に徳川家の菩提寺となったのだ。それは、現在の上野公園がほぼ寛永寺の境内だったことを考えると頷ける。
以後、寛永寺には徳川歴代将軍のうち6人が眠る寺となった。
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平安京建都時の四神相応は「北=玄武=船岡山」「南=朱雀=巨椋池」「西=白虎=山陰道」と認識してきたのですが、それぞれ比叡山、琵琶湖、山陽道とされた根拠あるいは出典をご教示願えますか?
また比叡山は平安京の鬼門=北東の押さえとして置かれたという認識ですし、天海が江戸城の北東=鬼門にあたる寛永寺を「東叡山」としたこととも一致すると思うのですがいかがでしょう?