4年に1度のオリンピックで「アスリート」としてのピークを迎えるのは難しい。
そのうえスポーツの国際大会は、常に政治や戦争に左右されてきた。
時代に翻弄され悲運に泣いた日本のアスリート達を調べてみた。
目次
西 竹一【第10回ロサンゼルス大会・馬術障害・金メダル】
1932年(昭和7年)ロサンゼルス大会最終日、最後の種目である「大賞典障害飛越競技」を観戦する公衆の熱気が漂っていた。
ここで観客を熱狂させたのが陸軍軍人であった西 竹一(にしたけいち)と愛馬ウラヌスである。
失格者の続出した難しい障害を次々にクリアし、見事、金メダルに輝いた。西は記者会見で”We won”と言葉少なく語った。
これには「人馬一体」となって競技に望めたからこそ勝てたという意味が込められていたのかもしれない。この「金メダル」は日本の馬術競技唯一のメダルであり、これ以降、馬術で日本人メダリストは誕生していない。
西は現地で「バロン西」とたたえられ人気を集め、ロサンゼルスの「名誉市民」にもなった。しかし、戦争が激化すると西は戦地を転戦。
1945年には、硫黄島で部隊の指揮をとるも、3月22日、硫黄島の戦いで戦死した。
西は硫黄島へ向かう前年、馬事公苑で老後を過ごしているウラヌスを訪ね、愛馬にまたがったという。これが西とウラヌスの最後の別れになった。
西は硫黄島でも、ウラヌスのたてがみを肌身離さず持ち歩き、ウラヌスは西の後を追うように、1945年、春に死んだという。
戦争で亡くなったオリンピック出場選手達(※一部)
選手名 | 出場大会 | 出場種目 | 軍席 | 戦死年月日 | 没年齢 |
内田正練 | 第7回アントワープ | 競泳100・400m | 海軍司令官 | 1945年2月ニューギニア | 47歳 |
相沢巌夫 | 第9回アルステルダム | 陸上100・200m | 陸軍司令官 | 1945年10月ルソン島 | 39歳 |
木谷徳雄 | 第3回冬季レークブラシッド | スケート | 不明 | 1947年1月シベリア | 38歳 |
落合正義 | 第10回ロサンゼルス | 陸上ハンマー | 陸軍上等兵 | 1939年12月中国・北支 | 30歳 |
長尾三郎 | 第10回ロサンゼルス | 陸上やり投げ | 陸軍伍長 | 1943年12月ニューギニア | 33歳 |
阿武巌夫 | 第10回ロサンゼルス | 陸上100・400m | 陸軍上等兵 | 1939年12月中国・南支 | 31歳 |
武村寅雄 | 第10回ロサンゼルス | 競泳1500m自由 | 陸軍兵長 | 1945年7月ミンダナオ島 | 31歳 |
石田英勝 | 第10回ロサンゼルス | 水泳高飛び込み | 陸軍特殊 飛行部隊 | 1944年2月フィリピン | 36歳 |
河石健吾 | 第10回ロサンゼルス | 競泳(銀)100m自由 | 陸軍大尉 | 1945年3月硫黄島 | 33歳 |
横山隆志 | 第10回ロサンゼルス | 競泳(金)400・800m | 陸軍二等兵 | 内地で戦病死 | 不明 |
中村英一 | 第10回ロサンゼルス | ホッケー(銀) | 陸軍准尉 | 1945年5月内地で戦死 | 36歳 |
柴田勝巳 | 第10回ロサンゼルス | ホッケー(銀) | 陸軍兵長 | 1942年8月中国・北支 | 34歳 |
他にも(上記図一部略参照:戦没オリンピック名簿)西田修平と共にメダルを分け合い「友情のメダル」を作った大江季雄はルソン島、「ベルリンの奇跡」で同点ゴールをあげたサッカーの右近徳太郎はブーゲンビル島、逆転ゴールをあげた松永行はガタルカナル島で、それぞれ『戦死』しており、戦没オリンピアンは確認できるだけでも35人にも上る。
戦争の犠牲、幻となった「1940年東京五輪」
戦争はオリンピックの開催そのものにも暗い影を落とす。
日本は「日中戦争」の激化を理由に1940年夏:東京大会、冬季の札幌大会の開催を返上し、IOCは代替の開催地を検討したが、第二次世界大戦により中止になり、続く1944年も開催されなかった。
古橋廣之進【敗戦国の為、出場機会を奪われたアスリート】
戦争の影響は戦後にも及んだ。
1948年ロンドン大会、日本は第二次世界大戦の責任を問われ出場が承認されず、それを受け日本水連はオリンピックと同じ日程で「日本選手権」を開催した。
この大会に参加した一人に 古橋廣之進(ふるはししんのしん)がいた。
古橋はその前年の「日本選手権」400m自由形で当時の世界記録を上回る記録で優勝しており、世界の一戦で戦えるスイマーだった。古橋はロンドン大会と同日に行われた「400m自由形、1500m自由形」では、ロンドン大会の金メダリストの記録と当時の世界記録を上回るタイムを叩きだし、非公認ながも世界記録を連発する姿に、日本中は熱狂した。
そんな古橋にもチャンスが来た。1949年、日本の国際水泳連盟復帰が認められると、同年にロサンゼルスで開催される「全米選手権」に招待されたが、渡米に渡りビザの発行がなかなか認められない。そこで動いたのが1932年のロサンゼルス大会の100m背泳ぎで金メダルを獲得した清川正二である。
「反日感情」の溢れた時代だったが、清川は奔走し「ビザの発行の直談判・ホームステイ先」など尽力し、古橋らは競技に臨んだのである。
その結果、古橋は「400m・800m・1500m」それぞれ「世界新記録」を樹立し、「フジヤマのトビウオ」とたたえられた。
まとめ
このように20世紀に入ってからのオリンピックも「政治・外交」と切り離せない局面がいくつもあった。
1980年の共産圏初のモスクワ夏期五輪、前年にソ連による「アフガニスタン侵攻」により西側諸国がボイコットし、日本も追随しボイコットとなる。
ソ連が崩壊し『ロシア』となっても「薬物使用」までしてメダル獲得に奔走して糾弾されているこれも「負の遺産」である。
国として安定かつ平和でなければ開催されないオリンピック。
純真に「スポーツを愛するアスリート達」にとっての「夢の祭典」である事をやはり忘れてはいけないと思う。
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