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幻の東京オリンピック(1940年)招致に命を懸けた男~嘉納治五郎~

1930年代後半から40年代前半にかけて『戦争』の影が世界を覆った。

幻の東京オリンピック」は、この最中に開催が決定し、準備半ばで返上という運命を辿った。
東京が1940年第12回大会に立候補したもともとの動機は未だに”芸者・サムライ”のイメージしかない日本国をもっと世界に知らしめたいという当時の東京市長:永田秀次郎の純粋な想いからだった。

当初「たかがスポーツ」と招致活動を軽視していた日本政府は、軍国主義化が進み国際的に孤立しかけると、オリンピック開催を「名誉挽回」の道具として方向転換する。その陰には、政治的思惑とは別に、純粋に情熱を持ちこのオリンピックに力を尽くした人物がいた。

その人物は嘉納治五郎(かのうじごろう)である。彼のオリンピックに対する熱い情熱と功績を調べてみた。

「1940年・東京オリンピック招致」に燃えた嘉納治五郎とは?

幻の東京オリンピック(1940年)招致に命を懸けた男~嘉納治五郎~

※嘉納治五郎

嘉納治五郎➡1909年アジア初IOC委員であり、かつ「柔道の父」と呼ばれた男
岸 清一 ➡日本で二人目のIOC委員であり、「近代スポーツの父」と呼ばれた男
徳川家達 ➡徳川家十六代目・1935年(昭和10年)招致委員会長を務めた男
副島道正 ➡五輪招致成功のキーパソンでもあり、返上でも中心的役割を果す男

この四人の男達は、「1940年東京五輪招致」に人生を懸けた人物であり一際、異彩を放っている。

中でも「嘉納治五郎」は、教育者・柔道家・貴族院議員であった。虚弱ゆえ学んだ「柔術」を「柔道」に昇華させ、海外に広める過程で培った人脈を活かして1940年(昭和15年)五輪招致を成功させた人物である。

嘉納は1860年、今の神戸市に生まれた。一族は灘の高名な廻船業者である。1870年(明治3年)政府に招かれた父に付いて上京し、1881年に東京大学文学科卒。学習院で英語と理財学を教え、1889年から一年半は、官費で欧州教育視察。

帰国後、東京高等師範学校(筑波大学の前身)の校長を通算25年ほど務めた。教育者のキャリアと並行して、スポーツ振興にも力を注いだ。嘉納が柔道場の「講道館」を開いたのが1882年。柔術各流派を総合改良し、囲碁や将棋から段位制を取り入れ、技の体系化を図り「柔術」を「柔道」に改めた。
発足時は数名だった門人は、20年たらずで6千人余。「講道館」は柔道の総本山となる。

フリーメイソンからの誘い

※ピエール・ド・クーベルタン男爵 フリーメイソン会員

嘉納とオリンピックの関わりは1909年、駐日仏大使セザールから国際五輪委員会(IOC)委員にと、誘われた事に始まる。セザールは近代五輪創始者クーベルタン男爵から、日本での委員の適任を探す様に頼まれていた。クーベルタンはフリーメイソンとしても有名である。

教育者として『体育』を重視していた嘉納は「日本もオリンピックの仲間入りをし、各競技を普及させ国民の体力増進に役立てよう」と要請を受け入れる。アジア初のIOC委員である。嘉納は3年後に開催される「ストックホルム五輪」を目指し、その出場資格を認定する組織作りに着手した。

東京帝大・早稲田・高等師範など学校関係者や、財閥の重鎮:渋沢栄一、三菱財閥総帥:岩崎小弥太、政界の大物:西園寺公望(さいおんじもんきち)らに協力を仰ぎ、設立されたのが「大日本体育協会」=日本スポーツ協会の前身である。

そして1912年5月、日本はストックホルムでオリンピックに初参加する。団長は嘉納。選手は陸上短距離:三島弥彦とマラソンの金栗四三の2名。

結果はさんざんだったが、参加自体が記念すべき快挙である。1916年のベルリン五輪は第一次世界大戦で中止。
1920年のアントワープ五輪には、嘉納団長の元15名の選手が参加し、日本は男子テニスで初のメダルを獲った。

IOC総会で東京開催決定

1930年、東京市長:永田秀次郎が嘉納に「1940年皇紀2600年祝典に併せて、五輪を招致したい」と依頼してきた。

すでに70歳の嘉納は「それは不可能に近い」と思ったが、「ともかくやってみましょう」と返答をした。

1932年、嘉納は同じくIOC委員の岸精一と渡米。ロサンゼルスで開かれたIOC総会に「招請状」を提出し、演説した。

「近代五輪は、ギリシア人だけに限られていた五輪を世界中に広げる為に始めたのだから欧米だけに留めてはならない。欧米以外の国では、日本ほど熱心に五輪に参加している国はない!」

と説いて廻った。「一人の決心は千万人を動かすに足る」=これは嘉納が門人たちに遺した言葉である。

1936年3月、IOC会長ラツールが来日した時には天皇が面会するなど接待に努めた。その甲斐あって同年5月、ベルリンのIOC総会で、ライバルのヘルシンキを「36対27」で破り、東京開催が決定する。

突然の日中戦争勃発!「招致」の為に命を懸けた嘉納治五郎

しかし翌年1937年7月、日中戦争勃発。

軍需物質が五輪に流れることを嫌った陸軍は『開催反対』に回り、IOCでも日本批判の声が高まった。ラツールも「日本の面目の為にも辞退を」と述べるまで事態は悪化していた。

1938年3月、77歳の嘉納はエジプトのカイロのIOC総会に出席、強い風当たりの中説得を重ね、東京五輪の開催が最終的に決定された。嘉納は、ラジオに喜びの声を乗せて日本に発した。

嘉納は、カイロからアテネ、イタリア、フランスを経てアメリカから帰国の途に着くが、強行日程が堪えたのか、船上で肺炎を発病して帰らぬ人となった。1938年5月4日、横浜到着の2日前だった。日本政府が閣議で「五輪返上」を正式に決めたのは、7月15日の事だった。

幻の第12回東京大会について(まとめ)

筑波大学附属小学校の占春園(元・東京高等師範学校附属小学校)にある嘉納治五郎像

嘉納治五郎が命を懸けてやり遂げようとした「幻の1940年東京五輪招致」から私達は、何を学べば良いか?

オリンピックというのは「国際大会」であり、あくまでも良好的な国際環境がないと成功しないという事を忘れてはいけない。

現在でも、北朝鮮や尖閣の問題の様に、日本にとって国際問題の火種はあるし、他の国々でも火種を抱えている地域はいっぱいある訳だが、もし本格的な紛争に発展したら世界の国々が集まって大会をやる事はできない。

嘉納が尽力を尽くした「40年大会」から言える事は、国際社会が平穏でこそ「五輪大会」は、できるものなのだという事を忘れてはいけないと思う。

関連記事:
オリンピックに懸けた日本人達 ~「マラソンの父」金栗四三の軌跡~

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総一郎

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コメント

    • 2018年 10月 28日

    加納はオリンピック云々よりも無名だった柔道の普及に貢献した人として有名
    柔道の始祖と言ってもいい

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