家康から名前を間違えられた男
母里友信(もりとものぶ)は、黒田孝高(官兵衛)・長政の父子に仕えた武将です。
父は播磨の国人、曽我一信で、小寺氏に仕えていましたが、孝高が小寺家の重臣になったことで、黒田に仕える武士となったようです。
曽我一信と、母里氏一族の母の間に、弘治2年(1556年)頃に生まれたのが友信でした。。
友信が母方の姓である母里を名乗ったのは、戦で母里氏の一族が討ち死にしてしまい、その断絶を惜しんだ孝高の命によるものとも言われています。
因みにこの「母里」という姓の読みを「もり」から「もうり」と勘違いして表記を「毛利」とした出来事が起こりました。
それは友信が、天下人となった徳川家康の江戸城の普請に関わった際のことでした。江戸城の天守台の石垣普請を担当した友信は、その功から徳川家康に刀を賜りました。
しかしそのときの書状に間違って「毛利」と記されてしまったのでした。これを見た主君・長政は徳川に憚って、以後「毛利但馬守友信」を名乗ることを命じたのでした。
尚、黒田家中での正式な読みは「ぼり」とされており、ご子孫の方も「母里(ぼり)」を用いられているようです。
黒田家の先陣武将
友信の初陣は、天正元年(1573年)の印南野合戦とされています。
槍術を得手とした大剛の武士として、初陣以降も黒田家臣の先陣を務める働きをみせました。
天正6年(1578年)、織田信長から離反した荒木村重に主君・孝高が捕らえられる事態が起こりました。この時も主君が不在であっても黒田家に忠誠を誓う、留守中連著起請文に友信もその名を連ねています。
その後、無事に孝高が戻ると、その下知に従って中国や四国の戦場を転戦しました。
天正15年(1587年)から開始された秀吉の九州征伐においては、豊前の宇留津城攻めにおいて一番乗りの武功を挙げ、戦後に孝高が豊前を領すると、信友も5,000石を与えられています。
またこの後の朝鮮出兵にも長政に従って渡海しています。
関ケ原以後の友信
友信は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては、九州にあって黒田勢を率いた前主・孝高(この頃は如水)に従って出陣、豊後国で再起を狙って挙兵した大友義統(友信の妻は大友宗麟の娘につき、義兄にあたる)を降伏させました。
これらの功から、戦後に長政が豊前中津18万石から筑前名島52万石へと大幅な加増・移封を受けると、友信も筑前鷹取城1万8,000石を領することになりました。
ちなみに友信がその生涯の戦でに挙げた首級は、合計で76にも及んだとされて、黒田家中でも最も多かったとされています。
この後、友信は慶長11年(1606年)に黒田家の同僚であった後藤基次(又兵衛)が出奔したことを受けて、その領地を受け継ぎ益富城主となりました。
加えてこの頃に長政から「但馬守」の称号も与えられたとされています。冒頭の名前の逸話は、さらにこのあとの出来事でした。
名槍・日本号と黒田節
「酒は飲め飲め、飲むならば〜」の唄い出しで知られる「黒田節」。
ここに伝えられているのが信友の酒豪としての逸話です。
これは、あるとき友信が主君・長政の命を受けて福島正則を訪問した際のことでした。
正則自らが大きな杯で友信に酒を飲むよう薦めたことがきっかけでした。
元々、友信も大酒みとして有名でしたが、それを案じていた長政から、前もってそうした挑発に乗らないよう諭されていたため、ぐっと堪えて、勧めを断っていました。
それでもしつこく正則が、大きな杯で酒を飲み干してみせれば何でも望みの褒美を与えると挑発を続けて、更に黒田家全体を嘲る態度を見せたのでした。
ここに至り、自らの事のみならず、家名を貶められた友信は遂にこれに応じ、見事大杯の酒を一気に気飲みてみせました。
友信は続けて、武士に二言はなかろうと、褒美として正則が秀吉から拝領し、家宝としていた名槍「日本号」を要求しました。
正則は自らがけしかけた手前断ることが出来す、友信が要求取りに「日本号」これを手に入れたという逸話です。
これを下にして「黒田節」やその姿を模った博多人形が作成され、黒田武士の雄姿を今に伝えています。
母里友信 の最期
友信は、慶長20年(1615年)に死去、享年60歳でした。
栗山利安と共に黒田軍の創成期から先手両翼の大将を担った武将でした。黒田二十四騎に数えられる将の中においても、特に武に優れ生涯を通じて黒田家を支え、黒田八虎にも挙げられた剛勇の武将でした。
但し武だけではなく、時には調略、政でも築城や長崎が移動の整備を行うなど秀でた才を発揮した華のある武将として、今に語り継がれています。
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