偉大な父の影
黒田長政(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師として著名な黒田孝高(官兵衛)の嫡男であり、関ケ原の戦いへの貢献を高く評価され、筑前福岡藩52万石の初代藩主となった人物です。
父・孝高は秀吉に天下を獲らせたとして智謀の持ち主として、数々の逸話や献策などでつとに知られていますが、長政はどちらかと言えば偉大な父の影に隠れて、そこまで注目されていない感もあります。
しかし長政は、徳川家康からも関ケ原の第一の功と認められた働きで、徳川に天下を取らせたといっても過言ではない存在でした。
むしろ父・孝高より戦国武将としては武勇に秀でた武将ともいえました。
初陣と歴戦
長政は、永禄11年(1568年)に父・孝高と正室・櫛橋光の嫡男として播磨に生まれました。
長政は伊達政宗や立花宗茂とほぼ同年にあたり、彼らの1年後の生まれとなっています。
長政は幼い頃は織田信長の人質として、秀吉の下に預けられていました。ここで長政は天正6年(1578年)に荒木村重が信長に反旗を翻し、その説得に赴いた孝高(勘兵衛)が荒木勢に捕えられて戻らなかったことで、信長から殺害の命令が出されました。
この命に対して竹中重治が機転を利かせ実行したように見せかけたことで、長政は一命を取り留めたとされています。
その後長政は、天正10年(1582年)に父・孝高とともに秀吉の傘下で中国の毛利氏攻めで初陣を果たしました。
この従軍中に信長が本能寺に倒れると、以後は父・孝高と共に秀吉に仕え、翌年の天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いやその後の小牧・長久手の戦いでも大坂城を守る武功を挙げました。
豊前での誅殺
孝高・長政父子は、秀吉による天正15年(1587年)の九州征伐後、豊前国中津に12万5,000石を与えられました。この領地が二人の貢献に比して少ないとも言われていますが、ここでは一旦おいておきます。
この地の国人領主に城井鎮房・朝房父子がありましたが、秀吉からの伊予への移封を受け入れませんでした。長政ら黒田勢は、持久戦の末に鎮房・朝房父子を従わせましたが、秀吉への印象が枠くなることを懸念し、誅殺を実行しました。
長政は、居城・中津城において鎮房を酒宴を口実に誘きだしてこれを誅殺し、更に城井氏の居城・城井谷城を攻めて、鎮房の父・長房を討ち取り、朝房も孝高によって殺害、城井しの勢力を取り除き領国の支配を固めました。
朝鮮出兵
長政は、天正17年(1589年)に孝高が隠居をしたことで家督を相続しました。
しかし孝高は秀吉の傍に仕え、完全な隠居という訳にはいかなかったのですが、結果的に長政は黒田家の当主となりました。
文禄元年(1592年)から始まった朝鮮出兵の文禄・慶長の役でも長政は渡海しました。主力を率いた将として余多の武功を挙げましたが、豊臣政権の五奉行の一人・石田三成との確執を生み、以後長政は三成らに反する武断派と呼ばれ、後の関ケ原の戦いにおいて、徳川方に与するきっかけのひとつになりました。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が没すると朝鮮出兵は終了し、戦いに参加した諸将は売るものがないまま帰国の途に就きました。
関ケ原の戦いへの貢献
長政は、三成らとの対立から徳川家康との誼を通じて、正妻であった蜂須賀正勝の娘と離縁して、家康の養女・栄姫を迎えて縁戚関係を結びました。
こうして家康を舅とした長政は、慶長5年(1600年)に会津・上杉征伐に従軍しました。この動きを見た三成らが大坂で挙兵すると、会津に向かっていた諸将の中において、東軍として三成を討つべきだということを早々に表明して家康勢の意志決定に積極的な枠割りを果たしました。
また武将として臨んだ関ヶ原の戦いにおいても、三成の家老を務めた猛将・島清興を討ち取る武功を挙げました。
しかし長政が最もこの戦いに貢献したのは調略においてであり、西軍の小早川秀秋や吉川広家などの裏切りを成功させて、わずか半日の戦いで東軍に勝利をもたらしました。
この功により、家康から御感状を賜ると同時に、関ヶ原の戦いにおける一番の功労者として筑前国名島52万3,000石の領地を有する大大名に列せられました。
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