藤原氏に連なる家系
内藤昌豊(ないとうまさとよ)は甲斐武田氏に仕えた武将であり、その副将格を務め武田四天王の一人にも数えられている人物です。
一般的に「内藤昌豊」の名で知られていますが、近年の研究では正しくは「内藤昌秀(まさひで)」であるとも指摘されています。
また「内藤」姓は武田信玄からの下命で名乗るようになったもので、元は「工藤」姓であったと伝えられています。工藤氏は藤原氏の傍流にあたる名門の武家であり、巷説では昌豊の父は当時の武田氏の当主であった信虎の勘気を被って誅殺され、昌豊は信玄が当主となった後に帰参したと伝えられています。
信濃・深志城代
昌豊は大永2年(1522年)に武田信虎の家臣であった工藤虎豊の次男として生を受けました。先の信虎と父との確執を挟み、天文10年(1541年)に信玄が信虎の追放に成功し、武田氏の家督を相続した後に帰参したものと考えられています。
昌豊は永禄4年(1561年)に発生した上杉氏との第四次川中島の合戦に従軍、武田流軍学を伝える「甲陽軍鑑」によればこのとき上杉勢が布陣した妻女山に対する別働隊の大将を務めたとも伝えられています。
昌豊はその後の永禄6年(1563年)頃から、その地・川中島を臨む信濃の深志城の守将を務め、以後深志城代となったとされています。
箕輪城代へ就任
昌豊は永禄12年(1569年)の北条氏との三増峠の合戦では、武田勢の補給を支える小荷駄隊を率いて従軍したと伝えられています。壮絶な山岳地帯での退却戦戦として名高いこの戦いは、信玄の用兵によって退却する側の武田勢が勝利を収めました。
尚この合戦で箕輪城代を務めていた重臣の浅利信種が討ち死にしたことから、昌豊がその後を受けて箕輪城代となり、以後昌豊自身が討ち死にすることになる天正3年(1575年)までその任にあたりました。
因みにこの頃の記録に「内藤」姓の表記が見られることから、箕輪城代となった時点で改姓したものとも考えられています。
信玄の信頼
昌豊は上洛を目指して西上の兵を挙げた信玄が元亀4年(1573年)に病没した後は、その後を継いだ武田勝頼に仕えています。
昌豊は、信玄の臣下であった頃、武田勢の主要な合戦に従軍し、いずれの合戦でも功を挙げていましたが、当時の武士の評価の証であった感状は一枚も与えられなかったと伝えられています。
「甲陽軍鑑」において信玄は、昌豊ほどの武将であれば普通以上の功があって当然とし、敢えて感状を与えなかったとされています。昌豊自身も合戦の勝敗は大将の采配で得るものにつき、自身の評価には拘ることがなかったとも伝えられています。
長篠の合戦
昌豊は天正3年(1575年)の織田・徳川連合軍との長篠の合戦において、余多の武田氏の重臣らと同じく戦場の露と消えました。
巷説によれば昌豊は原昌胤や山県昌景らと同じく左翼に布陣したとされています。「甲陽軍鑑」では昌豊勢は織田勢の本隊と戦ったとされ、また別の説では徳川氏の本多忠勝勢と戦ったとも言われています。
昌豊は武田勢の敗北が明らかとなった中、重臣筆頭の馬場信春とともに大将の勝頼を無事に戦場から離脱させる殿を担い、最期は徳川氏家臣である朝比奈泰勝に討ち取られたと伝えられています。
武田勢はこの合戦で名だたる武将がことごとく討ち死にする大敗を喫し、以後かつての勢力を取り戻すことはなく滅亡を迎える事になります。
昌豊の他、この合戦では山県昌景、原昌胤、真田信綱、馬場信春ら武田氏を支えた重臣の大半が討ち死にしたと伝えられています。
巷説では織田・徳川連合軍の多数鉄砲隊に対し無謀な突撃を敢行した武田勢が壊滅した戦いと言われていましたが、鉄砲の3段撃ちや、そもそも武田勢が馬に騎乗したまま突撃したとすることも近年では否定されており、兵力的に武田氏の倍以上の数を動員した織田・徳川連合軍の合理的な勝利と解釈されています。
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