城,神社寺巡り

長篠城へ行ってみた【日本100名城】

長篠城

写真:長篠城(愛知県新城市長篠市場)

日本人なら誰もが知っている有名な「長篠(ながしの)の戦い」の現場へ行ってきました!

長篠の戦い」は、
・長篠城(ながしのじょう)の戦い
・鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦の戦い
・設楽原(したらがはら)の戦い

の総称で、注目されるのは、「戦国最強・武田騎馬隊 vs 三千丁の鉄砲の三段撃ちの徳川・織田連合軍」の「設楽原の戦い」ですが、今回は長篠城訪問記ですので、長篠城と「長篠城の戦い」が中心となります。

写真:「歴代長篠城主」(長篠城址案内板)

長篠城 略年表

永正5年(1508年)
今川方の菅沼元成が長篠城を築城し、長篠菅沼家初代宗主となる。
《長篠菅沼家》 菅沼元成─俊則─元直─貞景─正貞─正勝【紀州徳川家家臣】
永禄4年(1564年)
菅沼貞景、徳川家康に従属する。

元亀2年(1571年)
菅沼正貞、武田信玄に従属する。

元亀4年/天正元年(1573年)
4月12日 武田信玄、没する。
6月28日 「天正」に改元
8月15日 徳川家康、長篠城を攻撃し、城主・菅沼正貞は岩小屋城へ退く。
9月16日 徳川家康、奥平貞昌を長篠城の城番に命じる。

天正3年(1575年)
2月28日 徳川家康、奥平貞昌を長篠城主に任命し、改修させる。
5月1日 武田勝頼、長篠城を包囲する。
5月6・7日 武田勝頼、吉田城を攻める。
5月8日 武田勝頼、長篠(医王寺山陣地)に戻る。
5月10日 徳川家康、織田信長に長篠城救援を依頼する。
5月13日 織田信長、岐阜城から出陣する。
5月14日 鳥居強右衛門、長篠城を脱出する。
5月15日 織田信長、鳥居強右衛門、岡崎城に到着する。
5月16日 武田勝頼、鳥居強右衛門を磔殺(たくさつ)する。徳川・織田連合軍、牛久保城に泊まる。
5月17日 徳川・織田連合軍、野田に到着する。
5月18日 徳川・織田連合軍、設楽原に到着し、馬防柵の構築を始める。
5月19日 武田軍、軍議を開く。
5月20日 武田軍、設楽原に布陣する。
5月21日 「鳶ヶ巣山砦の戦い」「設楽原の戦い」
5月22日 鳥居勝商を埋葬する。
5月24日 武田勝頼、甲府へ帰還する。
5月25日 織田信長、岐阜城へ凱旋する。

天正4年(1576年)
前年の「長篠城の戦い」での損壊が激しく、長篠城は廃城となる。
(注)月日については諸説あり。

写真:「長篠城の戦い」武田軍配陣図(長篠城)

「長篠城の戦い」武田軍陣地

・武田軍本陣地(医王寺山陣地) 3000人(武田勝頼など)
・本陣後方 2000人(甘利信康など)
・天神山陣地 2500人(土屋昌次など)
・岩代陣地 2000人(内藤昌豊など)
・有海陣地 1000人(山県昌景など)
・篠場野陣地 1500人(穴山信君など)
・大通寺山陣地 2000人(馬場信春など)

写真:長篠城の本丸から見た武田軍の5砦

武田軍の5砦

・久間山陣地(600人)
・中山陣地(520人)
・鳶が巣山陣地(500人)
・姥が懐陣地(350人)
・君が伏床陣地(300人)

──戦国最強軍団の武田軍15000人が長篠城を取り囲んだ。
──長篠城の城兵は500人。耐えられるのか?

写真:長篠城縄張り図(上は北ではなく南)

写真:野牛郭(長篠城)

「長篠の戦い」の様子

「長篠の戦い」の様子は、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』「奥平信昌」に詳しく書かれています。

5月1日(4月21日とも、5月8日とも)、武田勝頼自ら15000人の兵を率いて長篠城を取り囲み、仕寄(竹束)を付け、金掘りに穴を掘らせ、所々に見張りを置き、滝川(豊川)に鳴子網を設け、昼夜の別なく、長篠城を攻めたが、城兵はよく防いで、城を守った。

11日、武田軍は、川を筏で渡り、野牛郭の野牛門を攻める。長篠城から打ち出て、追い払い、武器を奪い、竹束を焼き払った。

12日、武田軍は、本丸西隅に金掘りに横穴を掘らせて城内に侵入しようとするが、元武田軍の城主・奥平貞昌は、武田軍のやり方を熟知していたので、城内からも穴を掘らせて、鉄砲を撃った。武田軍は驚いて逃げ帰った。

13日の夜、武田軍が瓢(ふくべ)郭を乗っ取ろうとした。ここは長篠城の弱点であったので、城主・奥平貞昌は多くの兵を配置していた。鉄砲を撃って、多くの武田兵を殺したが、武田軍が怯まず攻めてきたので、城兵は、三の丸(巴城(はじょう)郭、羽城、端城)に逃げ込んだ。武田軍が枠と竹束を持ち込んで井楼(せいろう。櫓)を作ったので、鉄砲を撃ち、本丸からも異風筒(南蛮筒)を撃って破壊した。これにより、武田軍の800余人が負傷し、昧爽(まいそう。夜明け)、逃げ帰った。

14日、武田軍がまた野牛門を攻めた。長篠城から打ち出て、追い払ったが、多くの負傷者が出た。また、兵糧も残り4、5日分しかなかったので、城主・奥平貞昌は諸将を集めて軍議を開き、「徳川家康に援軍を頼もう」という結論に達した。使者には水泳が得意な奥平藤吉が適任であったが、「無事に城から出られても、帰ってくるまでに落城してしまったら(城で死なずに生き延びてしまったら)恥だ」と言って断ったので、城主・奥平貞昌は「自分が切腹して開城し、交換に城兵を助けてもらおう」と言うと、鳥居強右衛門勝商が進み出て、「私が使者になりましょう」と言い、鳥居勝商は、夜になって城を忍び出て、滝川を潜って越え、15日の未明に長篠城の向かいの船着山(一説に雁峰山)で相図の狼煙をあげた。そして岡崎へ行き、(身分が低いので、直接、徳川家康には会えないので)奥平貞能(徳川直参。長篠城主・奥平貞昌の父)に会った。奥平貞能が鳥居勝商を連れて徳川家康に対面すると、徳川家康は、「織田信長が援軍を率いて岡崎に到着している。不日(多くの日数を経ないで)長篠に向われる。儂も今宵、出陣するので、一緒に行こう」と言った。鳥居勝商をは「この吉報をすぐに伝えたい」と奥平貞能の手紙を持って長篠城に向かい、16日、長篠に着き、武田軍に紛れて、竹束を持ち、隙を伺って長篠城に入ろうとしたが、川を渡った時に脛巾が濡れて色が変わっていたのを馬場美濃守信房に見つかり、合言葉を聞かれたが答えられなかったので捕らえられてしまった。武田逍遥軒信綱(武田信玄の同母弟)が「『援軍は来ない。すぐに開城せよ』と言えば、命は助けるし、恩賞も与える」と言うので、鳥居勝商は承知して、城に向かって「援軍はすぐ来る。持ち堪えよ」と大声で言ったので、すぐに槍で刺殺された。武田信綱は、奥平貞能の筆跡を真似して、「織田信長は忙しく、援軍は来ない。すぐに開城せよ」と書いた手紙を矢に結んで城内へ射ったが、奥平昌長は偽書と見破り、「嘘が下手だ」と笑った。城兵は、「鳥居の死を無駄するな」と呼びかけ合って互いに士気を奮い立たせ、長篠城を守り通した。

そして、21日、設楽原で武田軍と徳川・織田連合軍が戦い、武田軍は大敗し、武田勝頼は、少数の残兵に守られて甲府に帰った。

写真:帯郭と内堀(長篠城)

写真:土塁と「長篠城址」碑(長篠城)

5月1日(4月21日とも、5月8日とも)から5月21日まで(5月8日からなら13日間(約2週間)、4月21日からなら30日間(1ヶ月間))という長期間、たった500人の城兵で、戦国最強軍団の武田軍1万5000人の攻めに耐えたとは、凄いです。

奥平貞昌が武田軍の攻めに耐えれた理由

耐えられた理由は、複数考えられます。

①長篠城が断崖絶壁の上にある難攻不落の城であったこと
②武田軍が本気になっていなかったこと
②-1:取り囲んで人質状態にし、徳川家康を誘った。
②-2:火矢を放って城を燃やさずに、すぐに使用しようと考えた。
③奥平軍200人で5000人の武田軍を破った成功経験(「亀穴城の戦い」)があったこと
④限界に達した時、鳥居勝商というヒーローが現われたこと

写真:牛淵橋から見た長篠城

① 確かに東、西、南は断崖絶壁で攻めにくいけど、北からは攻められますね。長篠城は、南側から見ると、断崖絶壁の上に立てられた「山城」に見えますが、北から見れば「平城」です。(実際、平城に分類されています。)

②-1:武田軍というと(本当にあったのか疑問ですが)騎馬隊──「城攻め」よりも「野戦」のイメージが強いですね。武田信玄は、野戦(「三方ヶ原の戦い」)で徳川家康を破りましたが、徳川家康が浜松城に入ると攻めませんでした。武田勝頼にしても、徳川家康が籠もる吉田城を2日間しか攻めていません。亀姫(徳川家康の長女)の婚約者である奥平貞昌を人質にとれば、徳川家康が吉田城(あるいは、岡崎城)から出てきて、野戦に持ち込めると考えたのでしょう。ですから、本気で戦って奥平貞昌を殺してしまっては意味がないのです。そして5月21日、武田勝頼は、「ようやく野戦ができる」と喜んで、馬防柵に突進するよう指示した・・・。

②-2:長篠城は重要な城なので、武田軍としては、抵抗しないですぐに開城して欲しかったのでしょう。火矢を放てば、すぐに勝てそうですが、それでは再建にお金も時間もかかります。ちなみに、この「長篠城の戦い」で長篠城はボロボロになったようで、奥平貞昌は、再建しないで廃城とし、別の場所に新たに城を築いて、亀姫を迎い入れました。

 成功経験は勇気の源になりますが、それにしても数日ならともかく、長すぎて、限界に達しようとした時にヒーロー登場!

武田軍としては、徳川家康を長篠に来てもらって、野戦で倒したいので、徳川家康への援軍要請は大歓迎です。そして、その夢は、ついに叶いました!

徳川家康だけが応援に駆けつけたら、武田軍の大勝利だったと思います。武田勝頼の誤算は、織田信長まで来てしまったことですね。武田勝頼はこれを「嬉しい誤算」と考えて馬防柵に突進させたわけですが、結果的には逃げた方が良かったですね。

鳥居勝商が祀られている鳥居権現

写真:鳥居勝商の墓(興国山新昌寺)

──鳥居勝商が新昌寺に「鳥居権現」として祀られている。

と聞いて、興国山新昌寺(新城市有海字稲場2)へ行ってみると・・・( ゚д゚) ちょ、おっき〜〜〜〜! 多分、「長篠の戦い」で亡くなった人のお墓ではダントツの広さですね。(門前の「鳥居権現」と刻まれた石碑も高かった; 境内には「鳥居閣」というお堂もあった。)近くのJR飯田線の最寄り駅も、鳥居勝商にちなんで「鳥居駅」ですし・・・凄すぎる (≧Д≦)。「三河武士の鑑(かがみ)」と賞されるに相応しい規模のお墓ですね。

写真:墓石に刻まれた辞世

鳥居勝商の墓:天正3年(1575年)5月22日、鳥居勝商の遺体は、喜船庵(現在の新昌寺。開山は長篠山医王寺14世・仙翁覚大和尚)の裏山に埋葬され、6月16日の本葬の時、五輪塔が建てられたが、慶長8年(1603年)、鳥居勝商の子・信商が墓と遺体を甘泉寺へ移した。新昌寺の空墓を守っていた墓守が奔走して、宝暦13年(1763年)、現在の墓(高さ129cm、幅78cm、厚さ21cm)が再建された。碑面には「天正三乙亥年 智海常通居士 五月十六日 俗名鳥居強右衛門勝商 行年三十六歳」とある。側面の「わが君の命に替る玉の緒をなどいとひけん武士の道」は辞世とされている。(「辞世など詠んでる時間などなかったのでは?」と思ったが、武士の嗜みとして、いつ死んでもいいように、辞世はあらかじめ用意してあるという。)明治36年(1903年)、境内に鳥居閣が建てられ、大正9年(1920年)、墓所が拡張されて現在の広さ(間口11.3m、奥行14.9m)になった。

※新昌寺公式サイト http://www.sinsyoji.com/

長篠城址史跡保存館

写真:内堀と長篠城址史跡保存館

さて、長篠城に戻ります。

日本100名城」のスタンプは、長篠城址史跡保存館の受付で捺せます。(駐車場は無料ですが、長篠城址史跡保存館の見学は有料です。ただし、スタンプを捺すだけなら無料です。)

写真:長篠城のスタンプゲット!

※長篠城址史跡保存館には貴重な資料が所狭しと展示されています。「写真撮影は可だが、撮った写真のインターネットでの公開は不可」だそうですので、内部の写真は、ここではお見せできません m(_ _)m

長篠城の感想

さて、長篠城へ行かれた方の感想は、

・好評:「標識や案内板がたくさんあって散策しやすい」「資料(有料、無料)が豊富」
・悪評:「狭いし、遺構は土塁と堀くらい。100名城に選ばれたのは知名度によるのだろう」

といったところです。

皆さんの様子を見てると(人間ウオッチ!)、さすがにスタンプを捺すだけの人はおられないようですが、本丸と長篠城址史跡保存館を見るだけの人が多いようです。「狭い」と言いますが、大手門跡から搦手門跡まで歩いてみれば、そういう感想は持たれないのではと思います。「せめて、野牛郭まで行けばいいのに」と思います。

あと、長篠城址史跡保存館の入ってすぐ右の展示物が行くたびに変わってます。前回は「近藤氏」についての展示でしたが、今回(2019年1月)は「アラモの戦い」についての展示に変わっていました。

次回は桜の季節か紅葉の季節、少なくとも「片葉の葦」に葉がある季節に行きたいと思います。

長篠城周辺の見所

──その角を曲がると何かがある。

というキャッチコピーにあるように、長篠には数多くの史跡があります。

徳川家康も、織田信長も、武田勝頼も、長篠に住んでいたわけではなく、戦うために出張(でば)ってきたわけですので、史跡の多くは「陣地」「討死の場所」「墓」になります。

寺院と陣地

・達磨山大通寺と大通寺山陣地

写真:「大通寺山陣地」(大通寺裏山)

写真:「大通禅寺杯井」(大通寺)

大通寺の裏山には、馬場信春など2000人がいた大通寺山陣地がありました。(大通寺山には、長篠の土豪・長篠氏の大通寺山城がありましたが、長篠氏は岩小屋城主・菅沼元成に攻められて長篠から西へ逃げ、徳島県徳島市に定住しました。)

「大通寺と盃井戸
達磨山大通寺は応永18年(1411)の創立と伝えられるが、天正時代の兵乱で焼失し、後に琴室契音大和尚(長篠山医王寺2世)が曹洞宗に改宗し、地蔵大菩薩を本尊として草創開山した。天正3年(1575)の長篠の戦の時には、武田軍の武将馬場信房、武田信豊、小山田昌行らの陣地となり、設楽が原に出撃して織田・徳川の連合軍と決戦することになった時、諸将がこの寺の井戸に集り、その水をかわし合って訣別の盃として出陣して行った。その後このことから盃井戸と呼ばれている。」(現地案内板)

・長篠山醫王寺と医王寺山本陣地

写真:醫王寺駐車場から見た醫王寺と医王寺山本陣地

写真:醫王寺境内図

写真:「武田勝頼公本陣趾」碑と無料パンフレット(醫王寺)

写真:弥陀池と「片葉葦」漢詩碑(醫王寺)

写真:「山県三郎兵衛 息継ぎの井戸」(醫王寺)

写真:民俗資料展示室の「長篠の戦い」コーナー(醫王寺)

写真:医王寺山本陣地(醫王寺裏山)

「「長篠の戦い」歴史探訪コース 医王寺
医王寺は永正11(1514)年克補契嶷(こくほかいぎょく)大和尚・二世琴室契音(きんしつかいおん)大和尚によって創立された曹洞宗のお寺です。(中略)天正3(1575)年に、織田・徳川連合軍と武田軍の間に起こった『長篠の戦い』では、ここ医王寺に武田勝頼の本陣が置かれました。勝頼は長篠城を攻囲し、窮地陥った奥平貞昌は徳川家康に救援を要請しました。武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突し、連合軍は織田信長の考えによる火縄銃を用いた戦法によって、武田軍に圧勝しました。医王寺には長篠の戦いにまつわる伝説が残っています。決戦前夜のこと、勝頼の枕元に白髪の老人が立ち、「明日の決戦は無謀だ、戦いをやめて故郷に帰りなされ」といさめたところ夢うつつに勝頼はとっさに傍らの太刀をとり、老人の肩口に斬りつけました。老人は煙のように消えましたが、翌朝、弥陀池の久葦がすべて片葉となったというお話です。弥陀池のほとりには、

「忠言元耳に逆らうひとは反求の深さを要す 片葉千秋の恨み誰が為に 心を尽くす」

と書かれた横山良仙作の漢詩碑がたっています。」(現地案内板)

武田勝頼が本陣を置いた長篠山醫王寺の弥陀池の葦(アシ)が片葉になった(葉が片方に寄った)理由は、「武田勝頼が愚将で、忠告を受け入れないから」とされています。

今川義元は「桶狭間の戦い」で少数の織田信長軍に負けたから愚将で、武田勝頼は馬防柵に突進したから愚将と、三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)以外は、皆「愚将」とされがちですが、今川義元は今川史上で、武田勝頼は武田史上で最も広い領地を獲得した戦国大名です。

遠江国各地に「片葉の葦」があり、「遠州七不思議」の1つになっています。植物学的には、風の強い地域の葦は片葉になるのだそうです。

※醫王寺公式サイト http://www.katahanoashiiouji.com/

神社

・城藪稲荷

写真:城藪稲荷跡(長篠城)

写真:城藪稲荷(大通寺)

「城藪稲荷
長篠城鎮守の稲荷のお使いであった、おとら狐を祀る。長篠の戦いの後、本社は城の移転にともなって移り、もとの稲荷は末社として残された。ところが残された末社を誰も祀らなくなったため、おとら狐はこれを恨み周辺を荒らしまわったり、人に取りついて重い病とした。そこで人々はこれを鎮めるため、おとら狐を城藪稲荷として祀ったと伝えられる。現在では、様々な願い事をかなえて下さるお稲荷様として厚い信仰を集めている。長篠古城址が、文化財として保全されるにあたり、平成18年に大通寺境内に移転、安置された。」(現地案内板)

城には鎮守「城山稲荷」が祀られていることがあります。

──城に農業神?

変だとは思っていましたが、城山稲荷の神は、農業神・宇迦之御魂大神(神道系稲荷)ではなく、荼枳尼天(仏教系稲荷)ということです。仏教系稲荷で有名なのが豊川稲荷で、眷属は平八狐ですが、ここ長篠城の城藪稲荷の眷属はおとら狐になります。

・天神社(長篠荏柄天神社)

写真:天神社参道口(この天神山には天神山陣地が置かれた。)

「天神社
鎮座地 新城市長篠字碁石
祭神 菅原道真
由緒 縁起に荏柄山天満宮は、昔、鎌倉の鎮守で、後、足利尊氏、崇敬す。応仁の乱(1467)の頃、河辺の荘大福田に遷座す。この当時奉納の鰐口残る。一色氏(地頭一色の祖)、勲功により天満宮を賜り、武州幸手の荘に移し、後、下総国小文間の里に移る。後、同国葛飾郡木ノ崎に移し、元禄11年(1698)9月、現在の社地に鎮座する。地頭・一色直興、崇敬した。」(『愛知県神社誌』)

写真:「林藤太夫高英屋敷跡」碑(長篠城二の丸跡)

『愛知県神社誌』の縁起を読んでも理解できませんが・・・福岡の大宰府天満宮、京都の北野天満宮と並び、「日本三天神」のひとつに数えられる鎌倉の荏柄山天神社の分社のようです。一色氏は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫地とする足利氏で、室町幕府では、四職の筆頭となりました。その後、一色氏は分立し、江戸時代に木野崎城(千葉県野田市)の城主となっていた一色氏は、元禄11年(1698年)、三河国設楽郡長篠村に転封となり、天神社を祀りました。日置流雪荷派(へきりゅうせっかは)の弓の達人・林藤太夫高英は、一色氏の代官です。

※木野崎城跡 http://www.city.noda.chiba.jp/shisei/profile/bunkazai/meisho/1000794.html
※「日本三天神」・荏柄山天神社(神奈川県鎌倉市)公式サイト http://www.tenjinsha.com/

写真:早川孝太郎顕彰碑(醫王寺)

おとら狐」の話に戻ります。

「おとら狐」は、武田軍の軍師・山本勘助のように、片目・片足(左目を失明、左足を負傷)です。「長篠の戦い」の時、長篠城の鎮守稲荷に住んでいた狐は、戦の見物をしていて、鉄砲の流れ弾に当たって左目を失明したそうです。「長篠の戦い」の後、長篠城は廃城となり、稲荷の末社も打ち捨てられてしまったので、この仕打ちに激怒した狐は、最初に万兵衛という分限者(お金持ち)の娘・おとらに取り憑いたので、「おとら狐」と呼ばれるようになりました。「おとら狐」に取り憑かれた者は、左目から眼脂を流し、左足を病み、「長篠の戦い」の話や身の上話を語るようになるそうです。

「おとら狐」の左足負傷の原因には諸説ありますが、一説に、烏に化けて林高英屋敷の塀に止まって鳴いたところ、林高英に射られたのだそうです。

「おとら狐」については、早川孝太郎(柳田國男の弟子)の『おとら狐の話』に詳しく書かれています。自身の長姉が、「おとら狐に憑かれた」と噂されたことが、郷里を出るきっかけの一つとなった早川孝太郎にとっては、「おとら狐」の話は、他人事では済まされない話です。不思議な事に、大正9年(1920年)に『おとら狐の話』が出版されて「おとら狐」の話が世に広まると、「おとら狐」に取り憑かれる者がいなくなったそうです。「おとら狐」は、無視されていたので、自分の存在を知ってもらおうと、人に取り憑いたようです。それが本で紹介されたので、人に取り憑かなくなったようです。(今後、城藪稲荷の参拝者が減り、「おとら狐」の存在が忘れられると、また取り憑かれる人が出てくるかもね。この記事を読んだ人は忘れないであげてね。)

「おとら狐」ではないけれど、無視は辛いです (´;д;`) 私も、記事にコメントが欲しいな。

■史料

『寛政重修諸家譜』の「奥平信昌」から「長篠城の戦い」

3年2月28日、先に長篠城を得給ひて後、諸士をして替わる替わる守らしめらるるの所、ここに至りて信昌に賜ふ。因りて堀、櫓を修理し、堅くこれを守る。武田勝頼、しばしば兵を出して、この城を攻むるといへども、戦ひ、利、あらざる事を憤り、5月朔日(或は4月21日)、自ら1万8千の兵を率ゐて城を囲み、竹束を以て仕寄をつけ、金掘りをして地中を鑿(さく)しめ、所々に遠見の者を置き、滝川に縄を張りて、日夜と無く、これを攻むる事、急なり。城将・信昌、援兵・松平外記伊昌と共に、衆を励まし、よく防ぎ、守る。

11日、敵、渡合の南門を攻む。信昌等、突きて出で、其の兵を追ひ払ひ、攻め具を奪ひ、竹束を焼き払ふ。

12日、敵、又、本丸の西隅に寄せ来り。数多の金掘りをして土屋を鑿崩し、既に攻め入らむとす。信昌、兼ねてより、図り知るが故に、其の入らむとする所を、城内よりもまた鑿しめ、鉄砲を発つ。寄手、大いに驚きて敗北す。

13日の夜、瓢(ひさご)丸を乗っ取らむとす。この所は、山沢にありて、土居を設ける事を得ず。要害堅固ならざれば、信昌、兼ねて勇士あまたを篭らせてこれを守らせしめ、物静かにして敵を間近く引き請け、月影に透かして鉄砲を発つ。寄手、これが為に撃たるる者の数知らず。然れども、事ともせずして塀際につきて、押し破らむとす。城兵、防ぐといへども、終に攻め破られ、保つべからざるが故に、夜に乗じて三丸に引き入る。敵、この攻め口に?(わく)の如くに作りたる手といへる物を持ち来たり。これに竹束を付け、井楼をあぐべき体に見えしかば、鉄砲数挺を撃ちかけ、本丸よりも異風筒を発ちて、竹束をうち破る。これがために寄手の輩、死傷800余人に及ぶ。これによりて、敵、昧爽(まいそう)に兵をおさめて去る。

14日、武田勢、また渡合の門を囲む。信昌等、城を出て防ぎ戦ひ、これを追ひ払ふ。はじめよりの戦ひに、敵、しばしば利を失ひしにより、しばらく合戦をやめて遠巻きす。味方もまた討死、手負ひ多く、兵糧も亦、乏しく、4、5日の貯に過ぎず。ここにをいて信昌、諸士を集め、これらのことを父・貞能が許につけ、且、東照宮の援兵を請ひ奉らむと図る。家臣・奥平次左衛門藤吉は水練達せしにより、これをして使ひたらしめむとすといへども、「其の出城の後、もし、落城に及ばば、末代までの恥辱なり」とて請けがはず。其の余の士も敢へてこれを諾する者無く、各言葉を同じうして、「とてもこの囲ひを出む事、叶ひ難かるべし。若し、又、逃れ出むにも、事、既に急なり。後詰、遅滞に及ばば、運を開き難かるべし。突きて出て、快く討死せむにはしかじ」と答ふ。信昌、止む事を得ずして、「しからば、某一人腹切りて、諸卒を助くべし」と言ふ。この時、家臣・鳥居強右衛門勝商、進み出て、「某、罷り向かはん」とて、則、貞能に贈るところの書を齎(もたら)し、この夜、約を定めて城を忍び出で、潜に滝川を越え、15日の未明に長篠城の向かひの山に相図の狼煙をあぐ。これよりただちに岡崎に馳せ参じ、貞能にまみえて城中の事を告ぐ。貞能、則ち、勝商を伴ひ、御前に出で、言上せしかば、「織田右府、既に援兵の事を諾し、当地に到着あり。不日に長篠に向はるべし。我もまた、今宵、出陣すべきあひだ、したがひ参るべし」と仰せ出さる。勝商、喜びて領掌す。「然れ共、この事、速やかに信昌に知らせ申したし」とて、貞能が返状を持ち、夜もすがら道を急ぎ、16日、城外に至り、敵の仕寄の者に紛れ、竹束を持ち、隙を伺ひて城中に馳せ入らむとす。馬場美濃守信房、勝商が脛巾の色の異なるを見咎め、これを捕らへ、貞能が返状を奪ひ取り、その由を勝頼に告ぐ。勝頼、これを糺問し、武田逍遥軒をして諭さしめて曰く、「汝、我言葉に従はば、死を免るるのみに非ず。厚く恩賞を行ふべし。城下に至りて親しき者を呼び出し、『信長、所々の軍事に暇あらずして、援兵の事をうけがはず。故に速やかに城を避よ』と言ふべし」と。勝商、偽りて諾す。ここにをいて、勇士10余人を添へて城下に至らしむ。勝商、城に向かひて大に呼はりて曰く、「織田右府、吾君と共に、当城の後詰として、御発向あらむこと、両、3日をすべからず。其の間は、堅固に城を守りて、あへて怖る事なかれ。此言、今生の別れなり」と。未だ言ひ終わらざるに、衆兵、鎗を把て突き上げ、柵の前に磔にす。其の後、武田左馬助信豊、貞能が手跡を似せ、「右府、所々の手合わせ多く、当地の加勢成り難し。速やかに城を避渡すべし」との謀書を作り、其の者は既に生け捕り、これを殺すといへども、武士(もののふ)の道は相互の事なれば、返書は則ち、これを贈るよし、矢文を城中に射入たり。城兵、これを見て疑ふ者、ままありといへども、奥平六兵衛昌長、謀書に疑ひ無き旨を述べ、大に其の謀の拙きを笑ふ。これにより、いよいよ堅く城を守る。

18日、右府、加勢として、兵を進めて設楽郷極楽寺山に陣し、男城介信忠、御堂山に屯す。東照宮も八剣高松山に御着陣あり。勝頼、兵を分かちて、小山田備中守昌行、春日源五郎某、室賀入道等、2000余人を長篠のさへとし、武田兵庫頭信実を部将とし、三枝松勘解由左衛門守友、名和無理之助重行、五味与惣兵衛貞成、飯尾弥四右衛門助友等を副て、鳶巣山の城を守らしむ。

21日暁天、東照宮、織田右府、長篠の辺り、有箕(ありみ)原に御出張あり。勝頼もまた2万余騎を率ゐて両陣に対す。この時、酒井左衛門尉忠次、父・貞能を嚮導として前夜より鳶巣山に至り、不意に発して彼山に攻め登る。武田勢、よくこれを防ぐといへども、忠次、下知して、敵の後ろに兵を廻し、陣小屋に火を放て、鯨波を発せしむ。武田勢、これがため、辟易し、軍伍を乱す。これを見て、信昌、長篠の城門を開きて突いて出で、前後より差し挟みて攻撃しかば、武田信実、及び、三枝松、名和、飯尾、五味等をはじめとし、2千余人、討死す。ここにをいて、勝頼が諸軍も悉く破れ、長篠城の押さへたりし小山田昌行、及び、春日、室賀等も2千余騎の兵を分かちて、4隊とし、火をその陣営に放ちて退かむとす。信昌、これを追ひて挑み戦ふ。貞能もまた鳶巣山を下りて撃て掛かる。これにより、甲軍、大に利を失ひ、春日をはじめ、死傷、数を知らず。凡そ、この役に信昌が一族、家臣等、戦功、尤も多し。日暮れに及びて、織田信忠、城中に入り、信昌、小勢をもって大敵を引き請け、堅く城を守りし事を感じ、且、家臣の輩が戦功を賞す。右府よりも西尾小左衛門吉次をして、信昌が勇敢を賞す。此夜、東照宮にもまた入御ありて、信昌及び一族・奥平久兵衛貞友、奥平修理定直、奥平但馬久正、奥平周防勝次、奥平次左衛門勝吉、奥平与兵衛定次、奥平土佐定友、7人、家老・山崎善兵衛勝之、生田四郎兵衛勝重、兵藤新左衛門某、黒屋甚右衛門勝直、夏目五郎左衛門治員、5人、御前に召され、各其の軍功を賞せらる。其の子孫等、今に至るまで拝謁を許さるるは、此例によりてなり。其の後、作手、田嶺、鳳来寺、岩小屋に篭りし処の敵、悉く城を避て去りしかば、仰せに依りて、貞能、信昌父子これを守る。

以上で長篠城の攻略終了!

さて、次はどの城を攻めようかな。

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    「山県三郎兵衛 息継ぎの井戸」:山県三郎兵衛が武田勝頼に戦うのをやめるよう最後の進言に来た時、息を整えるためにこの井戸水を飲んだという。

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