オーストリア ウィーンの観光名所の一つ、ハプスブルク家の皇帝居城「ホーフブルク王宮」を抜け、フランツ一世像の中庭を通りすぎたところにある英雄広場(へルデプラッツ)は、二人の騎馬像に由来している。
一人は、カール大公(1771~1847年)。
皇帝レオポルト二世の第三子で、大公にして元帥。フランス軍やナポレオン軍と戦ったことでも知られ、オーストリア史上にその名を残す軍事専門家だ。
そしてもう一人が今回紹介する、プリンツ・オイゲン(1663~1736年)。
彼は30歳で元帥府に列せられ、34歳で帝国軍総司令官になると、オスマン帝国を完全に撃破するという殊勲を立てた人物である。
ただし、彼は皇帝の息子でもなければオーストリア貴族でもなかった。
プリンツ・オイゲンは、オーストリアの長年の宿敵、フランス伯爵家の子として生まれた、れっきとしたフランス人である。
敵国オーストリアの地で、彼はいかにして英雄となったのか?
プリンツ・オイゲンの、その生涯を調べてみた。
生い立ち~宿敵オーストリアへ~
1663年10月。プリンツ・オイゲンはフランス伯爵の父、ユージュヌ・モーリス・サヴォア・カリニアンと、枢機卿マザランの姪である母、オランプ・マンチーチの間に生まれる。
オランプはフランス王ルイ14世の愛人であったため、オイゲンは生まれた時から、父親はルイ14世ではないかと噂されていた。
早々に父ユージュヌ・モーリスが戦死すると母オランプは再びルイ14世の愛人に戻り、オイゲンは軍人としてルイ14世とフランスに忠誠を誓いたいと願うようになる。
しかし、彼の軍志願はルイ14世に受け入れられなかった。
何故なら残念なことに、オイゲンは軍人としての体躯や容姿に恵まれなかったからだ。
よってルイ14世はオイゲンに軍人ではなく、僧職に就くよう命じる。
派手好きなルイ14世は体躯に恵まれなかった彼を臣下に加えなかったという見解が多いが、もしかしたら、ルイ14世もオイゲンを自分の子と思っていて、体躯に恵まれない…つまり戦死する可能性が高い軍人への道を歩ませたくなかったのかもしれない…という親御心があったのかもしれないと思うのは考え過ぎであろうか?
ともあれ、軍人の道を絶たれたオイゲンは、ルイ14世とフランスに失望し、ヨーロッパの覇権を争う宿敵オーストリアへと向かう。
若干、20歳の頃であった。
元帥府へ
この頃のオーストリア(神聖ローマ帝国)は主要都市ウィーンをオスマントルコ軍に包囲され、大きな危機にさらされていた。
皇帝レオポルト1世は、オーストリアの為に軍務につきたいと面会にきたオイゲンを、周囲の反対を押し切り将校として採用する。
一兵でも欲しい状況であったから採用したのか、それとも、レオポルトに人を見抜く才能があったかは定かではないが、この決断はオーストリアの歴史を大きく変えることになる。
1683年。竜騎兵連隊の連隊長(大佐)として対トルコ戦線へと出陣したオイゲンは、標高差を利用した攻撃で見事トルコ軍を撃破。ウィーンを奪回し、トルコ支配下のハンガリーへと攻めこむ。
これらの功績が認められ1686年には少将に昇進。
そして1688年。オイゲンは中将に昇進すると、わずか30歳で元帥府に列せられ、その後も1697年のゼンタの戦いでは3倍ものトルコ軍を撃破するなど、軍人としての才を惜しみなく発揮した。
敵国オーストリアで、何の縁もなく、官職を買う資金もなく、体躯と容姿に恵まれなかったオイゲンは、アルプレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン以来の大出世を遂げるのである。
祖国との対峙~スペイン継承戦争~
オイゲンが本格的に祖国フランスと対峙した「スペイン継承戦争」のことを少しご紹介しよう。
スペイン継承戦争とは、1701年スペインの継承権(各国の利害関係)を巡り、神聖ローマ・イギリス・オランダが連合してフランスと戦った戦争である。
開戦当初2年の間、オイゲンはイタリア方面でフランスの名将カティナ元帥と対峙し勝利すると、続いてルイ14世が派遣したヴィルロワ元帥を捕虜にするという武勲を立てる。
前線での戦術もさることながら、軍政を握り戦地の問題点(補給線)を改善するという戦略を展開。
戦いをさらに有利なものに進めていく。
1703年。多方面からの戦線を余儀なくされピンチを向かえるが、そこで彼は唯一無二の戦友となる英蘭軍総司令官マールバラ公爵と出会うこととなる。
マールバラ公爵については割愛するが、二人のタッグは無敵で、序々に形勢を立て直し、逆にフランス軍を追い詰めていった。
ちなみに、オイゲンを支えた人物として、後方支援(戦費支援)の宮廷ユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーの存在も大きい。
敵国であるオーストリアで理解ある上司と、有能な部下や友人に出会えたのは、彼にとって何と皮肉なことか。
さらに皮肉といえば、1708年アウデナールデの戦いで対峙したフランスの名将ヴァンドーム公ルイは、オイゲンの母オランプの姉の子でありオイゲンの従兄弟にあたる。
ヴァンドーム公は、オイゲンと同じく不格好で貴族の間では評判が悪かったが、公明正大で軍人の才があり、フランス史に残る名将の一人だった。
オイゲンは、自分に似たこの従兄弟との戦いに苦戦することになる。
歴史に「もしも」はないが、もしもこの二人が従兄弟同士、フランスの元帥として手を取り合い活躍していたら……ヨーロッパの歴史は大きく違うものになっていたかもしれない。
その後ルイ14世はもう一人の名将ヴィラール元帥を派遣し、和平交渉を彼に託した。
マルプラケの戦い後、1723年にユトレヒト条約、1714年にハプスブルク帝国とフランスの間でラシュタット条約が結ばれ、スペイン継承戦争は終結した。
何人もの元帥たちをオイゲンにより手玉に取られたルイ14世はどうであっただろうか?
地団駄を踏んで悔しがっただろうか?
戦後、オイゲンが建設したベルヴェデーレ宮殿が完成した際には、ルイ14世は祝いの品としてライオンを贈ったという。
もしかしたら、心の奥底では「さすがオレの子」と、ほくそ笑んでいたかもしれない。
彼の素顔は?
軍務から離れてもオイゲンはオーストリアの大黒柱的存在であった。
公平無私な人格で、諸外国の君主や外交官からの支持も高く、ロシアのピョートル大帝がポーランド王に推挙したエピソードは有名だ。
最後の戦いは総司令官として出陣したポーランド継承戦争で、後のフリードリヒ大王ことドイツのフリードリヒ2世が傘下に入り、オイゲンの戦略を学んだという。
オイゲンもまた、フリードリヒの才覚に気づき、カール6世の娘マリアテレジアの結婚相手に推したという話もあるが、実際に結婚したフランツ・シュテファンを推したという説もある。どちらにせよ、その後はドラマチックな展開が待ち受けていたのは歴史が証明した。
さらにその後のことを言うならば、第一次世界大戦後、オイゲンは愛国心を高揚させるべく大ドイツ国家建設と帝国主義の象徴とされ、ドイツでも国民的英雄となり重巡洋艦の名前にも使用された。
現在日本でプリンツ・オイゲンと言えば「艦これ」の可愛い擬人化キャラクターを連想する人の方が多いかもしれない。
出典:https://wikiwiki.jp/kancolle/Prinz%20Eugen改
一方で、オイゲンの華々しい戦術・戦略・戦歴は、参加した「戦争」自体があまり有名ではないせいか、取り上げられることは少ない。
また、彼のプライベートな性格を知る資料もあまりない。
故郷のフランスを離れ、異境の地で開花した一人の天才軍人の生涯を、今一度振り返ってみるのはどうだろうか。
関連記事:ハプスブルク家について調べてみた
ピョートル1世について調べてみた【身分を隠して工場で働いた皇帝】
この記事へのコメントはありません。