後藤又兵衛とは
大阪冬・夏の陣に真田幸村(信繁)らと共に大阪城五人衆の一人として活躍したのが 後藤又兵衛 (基次)だ。
10万人近くの浪人が全国から集まった中でも、特に名の通った勇猛果敢な武将ではないとなれなかったはずの五人衆。
その一人となった後藤又兵衛の生涯についてはあまり知られていない。
壮絶な最期を遂げ数々の逸話や伝説が残る後藤又兵衛について調べてみた。
後藤又兵衛の生い立ち
後藤又兵衛は、永禄3年(1560年)播磨国神東郡山田村の後藤基国の次男として生まれた。
後藤家は播磨守護大名・赤松家の一族で、又兵衛が生まれた時には父の基国は三木城主・別所長治の家臣で長男の兄・基信は春日城主だった。
別所長治が織田信長と対立を深めると後藤家は降伏して父は御着城主・小寺政職に仕えるが又兵衛8歳の時に病死した。
又兵衛は伯父・藤岡九兵衛が黒田官兵衛に仕えていたことから黒田家で養育された。
黒田家追放
有岡城主・荒木村重と黒田官兵衛の主君で御着城主・小寺政職が織田信長に反旗を翻すと、又兵衛の伯父・久兵衛は小寺側に味方したために又兵衛は黒田家を離れたという説。
官兵衛が有岡城に幽閉されたときに、伯父と従弟の後藤基徳・基長の兄弟も官兵衛を裏切ろうとしたために、黒田家を追放されたという2つの説がある。
いずれにせよ官兵衛が荒木村重に幽閉された時に、官兵衛の意にそぐわない行動を後藤一族が取ったために又兵衛は黒田家から離れたとされる。
黒田家を離れた又兵衛は羽柴秀吉の最古参の家臣・千石秀久に仕え天正11年(1583年)の讃岐高松城攻めで初陣を飾る。
黒田家帰還
天正14年(1586年)秀吉の九州征伐で先陣を務めた千石軍は、戸次川の戦いで島津家久に大敗をする。
領国の讃岐国に逃げ帰った後に官兵衛の嫡男・黒田長政が又兵衛の帰還を許し、100石で官兵衛の筆頭家老・栗山利安の与力となる。
官兵衛は息子・長政に「又兵衛は反逆人の一族なので近くに召し抱えてはいけない」と命じたために、長政は栗山利安に預けたのだ。
幼い時に又兵衛と長政は一緒に暮らしていたので、黒田家に帰還できたのだろうと推測される。
後藤又兵衛の数々の武功
又兵衛はこの後、黒田家の家臣として九州征伐、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いで武功を挙げる。
朝鮮出兵では先手を務め、亀甲車なる装甲車を作って敵の城壁を突き崩し、加藤清正の家臣・森本一久らと一番乗りを競った。
関ヶ原の戦いでは石田三成の家臣で剛槍使いとして知られる、大橋掃部(おおはしかもん)を一騎打ちで討ち取ったのだ。
関ヶ原の戦い後は黒田家の重臣の一人とされ大隈城主となり、16,000石の所領を与えられ隠岐守と名乗った。
又兵衛は黒田家の官兵衛・長政に仕えた家臣団の中でも精鋭と呼ばれた「黒田二十四騎」の一人とされ、さらにその中から身内や重臣たちで選出され「黒田八虎」と呼ばれた。
黒田長政との確執
官兵衛が亡くなって2年後の慶長11年(1606年)又兵衛は黒田長政と不仲になり、黒田家から一族で密かに出奔して黒田家と犬猿の仲だった隣国の細川忠興に接近した。
細川忠興は又兵衛を5000石の客分として召し抱えようとしたが、長政は引き渡せと抗議してこのことが原因で両家は抗争となる。
家康が仲裁に入り又兵衛は細川家を離れ浪人となり伯父・九兵衛が住職をしていた伊予の長泉寺に滞在する。
その間にも又兵衛には福島正則・結城秀康・前田利長・藤堂高虎など有力大名から仕官の話があり、中でも福島正則は3万石という破格の待遇を提示した。
長政は諸大名に召し抱えを禁ずる「奉公構」を出して又兵衛の再仕官の道を妨害した。
慶長16年(1611年)に播磨国領主・池田輝政を通じて岡山藩主・池田忠継に仕えるが黒田家と池田家の中が険悪となる。
その後、長政は徳川家康と会い又兵衛を池田家から追い出すことに成功する。
又兵衛は浪人として京都・大和で軍学教授を行うが、幕府も苦慮して6か月に渡り長政と又兵衛の帰参の調停を試みるのだが、又兵衛が黒田家に戻ることはなかった。
大阪の陣
家康による大阪攻めが現実を帯びると豊臣秀頼の重臣・大野治長の招きで慶長19年(1614年)又兵衛は大阪城に入場して、帰農していた旧臣たちを集める。
又兵衛は旗頭として天満の浦で閲兵式の指揮を任せられ「摩利支天の再来」と称される。
家康からは「又兵衛と御宿政友の二人のみが警戒される名望家」と恐れられ、京都相国寺の僧・揚西堂を使者に立てて播磨国をやるので味方になれと打診されたほどだった。
しかし、又兵衛は「豊臣の恩を忘れて心変わりをするのは武士道に反すると」と言って断ったのだった。
大坂城五人衆の逸話
冒頭で述べた大坂城五人衆とは真田幸村(信繁)・長曾我部盛親・毛利勝永・明石全登・後藤又兵衛の五人だ。
しかし、最初は真田・長曾我部・毛利の3人だけが大名格扱いの3人衆だった。
又兵衛は大阪城の南側に馬出しを作ろうと準備をしていたが、後から来た真田幸村がそこに出丸を築き始めて後世で有名な「真田丸」になるのだ。
それに怒った又兵衛が抗議する。困った大野治長は又兵衛と同格の明石全登に仲裁を依頼し、そのまま後藤又兵衛と明石全登も軍議に参加する流れとなり同列扱いとなったのが五人衆である。
後藤又兵衛の最後
その後、又兵衛は勝つ見込みはないと分かりつつも大阪冬の陣では6000余りを率いて、木村重成と協力しながら長岡勢や佐竹勢と相対した。
善戦するも冬の陣は和睦となり堀を埋められるが、籠城して次の戦いに備えた。
翌年の大阪夏の陣で劣勢になり5月6日真田幸村らと大阪城から撃って出る決意を固め、2800余りを率いて道明寺近くの最前線に陣取る。
濃霧によって味方の到着が遅れる中、孤軍でおよそ8時間も奮戦するも伊達政宗の家臣・片倉小十郎の鉄砲隊に怒涛の如く浴びせられ、胸を撃ち抜かれてしまうのだ。
又兵衛は吉村武右衛門の介錯で壮絶な最期を遂げ、翌日には幸村も家康の本陣に突撃後に討死にする。
2016年に確認された書物には、金万平右衛門が豊臣秀頼から又兵衛に与えられた刀で瀕死の又兵衛の首を落とし、刀は秀頼に返し首は持ち帰れずに又兵衛の旗を印として差し出したと記載されている。
介錯をした吉村武右衛門が又兵衛の首を泥田に隠し、後に取り出して伯父がいる伊予国の長泉寺に届けて埋葬したという説もある。
いずれにしても壮絶な最期を遂げた56年の人生だった。
後藤又兵衛の逸話
- 文禄の役で長政が朝鮮軍の敵と組み合って川に落ちた時に、又兵衛は傍にいながら加勢しなかった。
問われた又兵衛は「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言って悠然と見物を続けた。長政は敵をどうにか討ち取るが、この一件で又兵衛を恨むようになったとされる。
- 慶長の役では長政の陣営に虎が現れて馬を噛み殺すなど暴れまくった。そこで家臣の菅正利が虎を斬り付けると虎が逆上して正利に襲い掛かった。
その時、又兵衛が割って入って虎を斬り、正利は虎の眉間に槍で一撃を加えて虎を退治する。
これを見ていた長政は「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら畜生と勇を争うは不心得である」と言って二人を叱責した。
- 長政が戦の敗戦の謝罪に頭を丸めて官兵衛に謝罪した時、他の武将たちも頭を丸めたのに又兵衛は従わなかった。
そして平然と「戦に負けはつきもので、負け戦の度に頭を丸めていては生涯毛が揃うことはない」と言い官兵衛は不問にしたが、長政は面目を失った。
- 実は大阪夏の陣を生き延び、四国伊予の国に逃れて道後温泉で湯に浸かっている時に首を取られた。
- 大阪夏の陣で死んだ又兵衛は影武者で、幸村と共に秀頼を護衛しながら瀬戸内海から豊後国日出に上陸して、島津を頼る計画を実行した。
- 大分県中津市耶馬渓町には又兵衛の墓が残っていて、ここで九州入りした秀頼と再会を約束して別れたが秀頼が病死したことを知った又兵衛は自刃した。
- 黒田節で有名な母里友信が持っていた名槍「日本号」を虎から命を守ったお礼に譲り受けた。
- 身長は六尺(約180cm)を超え、大阪の陣では肥満で巨漢体中に53の傷があった。
又兵衛にはこの他にも数々の逸話や伝説が残っており、江戸時代に講談や軍記物語で豪傑な英雄として描かれている。
おわりに
後藤又兵衛は一族の裏切りで黒田官兵衛の怒りを買って、黒田家から追放される。
しかし、一度追放された又兵衛を黒田家に戻したのは幼馴染の黒田長政である。しかし二人の仲は徳川幕府を巻き込み、大名同士のいざこざに発展するほどにこじれてしまうのだ。
戦国時代の有力大名たちが勇猛果敢で知られる又兵衛を破格の待遇で迎えるほどであった。又兵衛の実力を知っているために誰にも渡したくなかったのは実は長政だったのではないかと考えると、その行動に納得がいくのである。
後藤又兵衛は「大河ドラマ真田丸」で哀川翔が演じた人でしょう。
やっぱり、はちゃめちゃな豪快な人だったんですね?ためになりました。