楠本イネとは (くすもと いね)、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本人医師である。
彼女の父親は、江戸時代、長崎の出島にて生活をしていたドイツ人医師フォン・シーボルトである。
イネは、当時は珍しいオランダ人と日本人の混血児で、数々の差別に遭いながらも医学を学び、日本人で初めて産科医として西洋医学を学んだ。
この記事では、“オランダおいね”の異名を持っていた楠本イネの数奇な生涯について調べてみようと思う。
シーボルトの娘
まずは楠本イネの父である、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1786~1866)について触れておこう。
彼は代々続くドイツ人の医師の家庭の出身で、当時の神聖ローマ帝国に生まれた。
シーボルトというファミリーネームの前についている、フォンという言葉は、彼の名前ではなく、貴族階級であることを表すものである。
医師であると同時に植物学者でもあったシーボルトは、1826年から、日本での貿易を許されていたオランダ商人のの江戸参府へ随行し、日本の自然や植物を研究したとされている。
その後、長崎の出島に留まり、鳴滝塾を開いて診療を行いながら、高野長英など多くの日本人に蘭学や動物・植物学、化学について教えたと言われている。
1828年(文政11)年に国禁である日本国内の地図を持ち出したとして、本国へ強制送還される(シーボルト事件)が、1859(安政6)年に再び来日した。
シーボルトは、著書『日本』の中で、ヨーロッパの人々にむけて日本の様子を紹介した。
そんなシーボルトであるが、長崎に滞在中、丸山遊郭の遊女である其扇(本名・たき)と恋仲になり、娘・イネが誕生した。
当時、外国人と遊女の間に生まれた混血児は少なくなかったが、そういった場合は里子に出すというのが一般的だったようだ。
しかしシーボルトはたきとイネをそばに置き、共に生活をしていたという。
イネは父に似て背が高く、母に似て美しい顔立ちをしていたそうだ。
日本で初めての産科医として
イネはシーボルトが本国へ帰ってしまった後、たくさんの師を持ち、医学を学んだ。
シーボルトの門下である医者・二宮敬作からは医学の基礎を、医学者・石井宗謙からは産科学を、村田蔵六(のちの大村益次郎)からはオランダ語を、というように。
イネは学ぶことに貪欲で、また確かな医師としての技術を持ち、1861年には徳川幕府に招かれ外交顧問に就任すると、江戸でヨーロッパの学問について講義をするなど、キャリアをアップさせていった。
やがて日本が開国し、明治の世の中になると、イネは東京に産科院を開業した。
47歳のときには宮内省御用掛の任を受け、明治天皇の女官(側室)であった葉室光子のお産に立ち会っている。
イネが登場するまでは、産婆と呼ばれる女性たちがお産を行っていたが、イネは西洋医学を学んだ“産科医”として、日本人女性の出産に大きな発展の道を与えたと言われている。
そんなイネの活躍は、医療漫画「JIN-仁-」の中でも描かれており、彼女の医学との向き合い方は、物語のヒロイン・橘咲に大きな影響を与えている。
差別と闘いながら
一見、順風満帆に見えるイネの生涯であるが、その人生は差別との闘いの連続だった。
当時は混血児への差別が激しく、ドイツ人と日本人の混血であるイネは、幼少期からかなりの差別を受けていたという。
もう一つは、女性であることによる性差別である。
当時の日本は完全に男社会で、医学を学ぶ女性は皆無だった。
イネは、当時師事していた医学士・石井宗謙から乱暴され、24歳のときに子どもを身ごもってしまう。
師であるという立場を利用した卑劣な行為を受けたが、産科医を目指し、多くの女性と子どもの命を救うという信念を強く持っていたイネは、堕胎をせずに未婚のまま娘を出産する。
イネはこの子を、「天がただでさずけた子ども」として、タダと名付けた。
のちに高子と改名したこの娘は、母に似て絶世の美女だった。
また、1875(明治8)年には医術開業試験制度が始まり、医師として仕事をするためには、試験を受けて合格しなければならなくなった。
ところが、イネは女性であったため、そもそも試験を受ける資格を与えられなかったのである。
医師と名乗ることを許されなくなってしまったイネの気持ちを思うと、なんとも浮かばれぬ思いである。
そこからイネは東京の産科院を閉鎖し、長崎で産婆として開業したそうだ。
最後に
この記事では、日本で初めての産科医である楠本イネについて調べてみた。
イネは晩年、異母弟であるヘンリー・シーボルトが建てた洋館に、娘・高子と、その子供と共に暮らした。
76歳で亡くなると、故郷・長崎に埋葬された。
現在では女性の産科医の数はとても多いが、そのすべての始まりを作ったことは、何にも代えがたい功績であると言えるだろう。
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