御館の乱とは
越後の龍・上杉謙信(うえすぎけんしん)は生涯独身を貫き、実子が無く2人の養子を後継者候補としていた。
その2人は謙信の甥・上杉景勝(うえすぎかげかつ)と北条氏康の七男・上杉景虎(うえすぎかげとら)である。
謙信は家督の継承について明らかにしないうちに病気で急死してしまう。
それが原因で起こった、越後を二分し他国も巻き込んだお家騒動が、御館(おたて)の乱である。
上杉家を二分し、多くの犠牲者を出してしまった戦国最大の兄弟喧嘩「御館の乱」について追っていく。
上杉景勝と上杉景虎
上杉景勝は弘治元年(1556年)越後国(現在の新潟県)の上田長尾家の当主・長尾政景の次男として生まれる。
母は上杉謙信の実姉・仙洞院で、長兄が早世したために世子となる。
永禄7年(1564年)父・政景が湖で溺れて亡くなると、叔父・謙信の春日山城に入り、我が子のように可愛いがられる。
その後、一度長尾家に戻り、謙信の実行部隊・上田衆の長として様々な戦で活躍する。
北条氏政が謙信との約束を破って武田と同盟を結ぶと、謙信は景勝を再び養子として上杉姓を与える。
謙信は景勝に「御中城様」という呼称をつけ、家臣団の中でもトップの位置付けにしている。
上杉景虎は天文23年(1554年)関東の雄・北条氏康の七男として生まれる。
越後上杉氏と相模北条氏の越相同盟によって、景虎は永禄13年(1570年)謙信の養子入りが決まり、謙信の姪・清円院(景勝の姉)を娶ることになる。
謙信から「景虎」という初名を与えられ、春日山城三の丸に屋敷を設け、清円院との間には道満丸(どうまんまる)という男子が生まれている。
しかし、兄の北条氏政が同盟を破談にしたことで、景虎の立場が悪くなってくる。
普通であれば同盟のために上杉家に入ったのだから、破談となれば北条家に帰ることになるのだ。
しかし義の男・謙信は景虎を見捨てずに上杉家に置いた。
上杉謙信の急死
謙信は実子がおらず、家督について明示する資料は残ってはいない。
景勝または景虎のどちらかとした説や、決めていなかったという説もあるが、生前に景虎の息子で景勝の甥でもある道満丸に家督を継がせ、成人するまでは景勝を後継者とするという説が有力だ。
天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城で突然倒れ、3月13日に死亡した。
死因は脳卒中ではないかとされているが、実は亡くなる前に辞世の句を詠んでおり、内臓疾患ではないかという説もある。
ただ、謙信は後継者を誰にするかを重臣たちに話してはいなかった。
謙信の死の直後に、景勝はいち早く春日山城の本丸に移る。
金蔵や兵器蔵を接収し、国内外に後継者となったことを宣言して、三の丸に立て籠もった景虎に攻撃を開始したとされているが、実は景虎に攻撃はしていないという説もある。
景勝は金蔵や兵器蔵だけではなく謙信の印判なども掌握していたため、謙信の遺言通りに行動を起こしただけであり、景虎からすると何も問題の無い行動だったとも推測できる。
上杉家中が二分する
謙信が死去したことを察知した会津の蘆名氏は、同年3月末頃に越後へ侵攻を開始する。
その動きを察した上杉家の重臣・神余親綱が武装を始めると、景勝は「弔問の使者を送ってくれた蘆名氏が侵攻などするはずがない」と不信感を抱く。
そして親綱に「忠誠の証として誓紙を差し出せ」と命令する。
長年上杉家に仕えてきた親綱はこの命令を屈辱として、景勝との関係を断ち切る。
すると蘆名氏は越後に侵攻してきた。これは近くにいた上杉軍が撤退させた。
親綱の判断は正しかったが、景勝は謝罪せずに謙信の叔父・上杉憲政の仲裁も聞き入れなかった。
景勝は口数が少なくとても頑固で、自分の考えを決して曲げない男だったのだ。
これがきっかけとなり、高圧的で権力を強化する景勝に越後の国衆が反発し、家臣たちの信頼を一気に失ってしまう。
圧倒的なカリスマだった謙信を失った上杉家は、織田信長・武田勝頼・北条氏政・蘆名盛氏からいつ攻め込まれてもおかしくない状況にあった。
重臣たちの間では「景勝では駄目ではないか」となっていく。
そこで「一度承認していた景勝の継承を否定し景虎を当主に据えれば、北条氏が味方になるかもしれない」と、景虎を担ぐ者たちが形成されていく。
景虎は「新たな当主として名乗りを上げれば景勝との争いは避けられぬ、謙信様の遺言に背くことになる」と思い悩むが、信頼を失った景勝ではどのみちうまくいかないかも知れないと思い、当主になることを決意する。
景勝方には直江信綱・斎藤朝信らの謙信の重臣と旗本の過半数がつく。
景虎方には上杉憲政や上杉一門衆の多くがついた、両軍の兵力は互角でまさに越後を二分した内乱となる。
ただ、景虎方には北条・武田・蘆名・伊達という他国の大名がついた。
御館の乱
景勝軍が景虎のいる春日山城の三の丸を攻撃し、景虎は数十人の家臣を連れて御館に移る。
こうして戦国最大の兄弟喧嘩「御館の乱」が勃発する。
景虎軍は約6,000の兵で春日山城を何度も攻撃するが惨敗してしまう。
そこで景虎は春日山城を落とすことを諦め、外交に頼った策に切り替える。
景虎は北条に援軍を要請するが、佐竹氏・宇都宮氏との交戦中であったため、北条は援軍を送ることは出来なかった。
そこで北条氏政は同盟を結んでいる武田勝頼に援軍を要請、勝頼は2万の大軍を越後に送り込む。
逆転の奇策
それを知った景勝は斎藤朝信・新発田長敦らを使者として、武田勝頼との和睦交渉という奇策に出た。
和睦の条件として黄金の提供と上杉領の上野沼田領の割譲を約束し、勝頼はそれを受け入れて越後への侵攻をやめてしまう。
勝頼からすると同盟を組んでいる北条に配慮して援軍を出したが、この争いは本位では無かった。
兵を出したことで北条に対する義理は果たし、経済的に苦しかった勝頼にとっては黄金と領土が手に入れば一挙両得と考えた。
景勝からすれば、この和睦が失敗するともう終わりだと覚悟を決めて臨んだ奇策であった。
これで勢いに乗った景勝軍は長尾景明や上杉景信らを討ち取る。
援軍が期待出来なくなった景虎は、勝頼の仲介で景勝と和睦をする事となった。
しかし、この隙をついた徳川家康が武田領へ侵攻し、勝頼が甲斐へと戻ったために和睦はすぐに破談となる。
すると、今度は北条軍が援軍にやって来て景勝方の城を落としていき、両軍は坂戸城でぶつかった。
激戦となったが景勝はなんとか凌ぎ、冬になり雪が降って補給などが困難になると、北条軍は関東に撤退した。
乱の終焉
両軍は越後の兵力だけで争いを続け、膠着状態のまま年を越してしまう。
天正7年(1579年)2月、景勝は御館への総攻撃を開始する。
また、北条軍が立て籠っていた城も奪還し、北条の援軍の無い景虎は窮地に立たされる。
同年3月17日、景虎の子・道満丸を人質として和睦交渉をするために、上杉憲政は道満丸と共に御館から脱出して景勝のもとへと向かった。
しかし、その道中に上杉憲政は道満丸と共に、何者かに殺されてしまう(※陰謀説や裏切り説など様々な説がある)
道満丸はまだ9歳であったが、生かしておくと新たな火種となると恐れられ殺害されたと考えられる。
御館は放火されて落城し、景虎は何とか脱出して小田原城を目指して落ち延びようとした。
その途中に味方の鮫ケ尾城に寄るが、城主の堀江宗親が裏切って景虎を城に残し放火。その後、景勝に攻め込まれた景虎は妻子と共に自刃した(享年26)
約1年に渡った御館の乱はひとまず終わる。
景虎の首を見た景勝は「こんなはずではなかった」と涙したという。本当は争いたく無かったとも思われる。
景勝の頑固な性格が災いして起こった義兄弟同士の争いは、悲しい結末を迎えた。
そして景勝は謙信の後継者として上杉家の当主となる。
しかし、景虎方の神余親綱や本庄秀綱の内乱が続き、戦が終了したのはそれから約1年後の、天正8年(1580年)であった。
おわりに
双方の兵力が拮抗した内乱だったために、上杉家は多くの武将や兵を失い軍事力はかなり低下した。その後、上杉景勝は北陸から侵攻してくる織田信長らに手を焼くことになる。
恩賞の配分にも不満の声が上がりさらに内乱が起きる。そしてそれを平定するのに7年もの歳月がかかってしまう。
上杉景勝と武田勝頼の同盟に怒った北条氏政は、武田との同盟を破談して織田・徳川・北条で武田を囲み、武田家は滅亡してしまう。
「武田と上杉」
戦国の両巨頭が国力を失くしたために、その後の戦国時代の勢力図は大きく塗り替えられていくこととなる。
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