歴史上の人物の中で、坂本龍馬・織田信長に続く人気者と言えば、やはり幕末期に京都で活躍した、新選組の面々であろう。
その中でも、局長である近藤勇、薄幸の美青年剣士・沖田総司、そして根強い人気を誇るのが、新選組の副長であった土方歳三(1835~1869)である。
そんな土方歳三には、不仲を噂されていた同士がいることをご存じであろうか。
それは、かつて新選組にて、同じ”副長”という肩書きを持っていた、山南敬助(やまなみ/さんなん・けいすけ、1833~1865)である。
この記事では、2人の不仲説は本当だったのか、なぜ2人の関係がこじれてしまったのか、詳しいことを調べていきたいと思う。
山南敬助とは
新選組副組長。
試衛館の剣客で、攘夷論を掲げ土方から疎まれている、文武両道の器量人。#映画燃えよ剣 #5月22日公開 pic.twitter.com/LvH0HHbxRG— 映画『燃えよ剣』 (@moeyoken_movie) April 3, 2020
江戸では天然理心流の剣士・近藤勇に挑むも、試合には敗退。
このことがきっかけで、近藤を慕うようになった山南は、近藤の下にいた土方歳三、沖田総司らと行動を共にするようになったと言われている。
そんな山南敬助は、小柄で色白の、どちらかといえば優しげな顔をした青年であったという。
近藤勇や土方歳三は百姓の家の出身であったが、山南敬助は元々が藩士であるので、彼らよりも教養や学識に優れていた。
また、”剣”の道にかなり過激な考えを持っていたという土方歳三に比べ、山南敬助は温厚派であったという。
かつて新選組局長であった芹沢鴨の粛清の際には、主たる戦力として活動していたが、その後の池田屋事件には出動せず、屯所に待機していたといわれている。
山南敬助はこの時負傷し、傷をいやすために出動しなかったとされているが、おそらくこの頃から、近藤や土方、特に土方との考え方に溝が出来、少しずつではあるがギスギスした関係になっていったのであろう。
山南敬助の最期
1865年3月20日(元治二年二月二十三日)は新選組 #山南敬助 が切腹により亡くなった日にあたる。
介錯は #沖田総司 がつとめたといわれる。
「慶応乙丑、故有昌宜使其自尽、年三十有三」『両雄士伝』
墓所/光縁寺 pic.twitter.com/FAjTb5gZtc— 新選組の日々(新暦) (@kiraboshi33) March 20, 2020
詳しいことは分かっていないが、ある日、山南敬助は新選組から脱出する。
しかし、京からほど近い大津にて、沖田総司に追いつかれ、その翌日には屯所に連れていかれることになる。
新選組には厳しい掟があり、その中のひとつが”脱走をしたものは切腹”というものであった。
当然、山南敬助も切腹を命じられることとなった。
この時の、彼の悲恋にまつわる言伝えが残っている。
それは、島原の遊郭「角屋」に在籍していた遊女・明里(あけさと)の存在である。
この「角屋」は、当時新選組が頻繁に足を運び、贔屓にしていた遊郭であり、山南敬助も足しげく通っていたという。
その中で、山南敬助は明里という遊女と恋に落ちる。
彼女は当時21~22歳頃で、とても上品な女性だったという。
最高位である”太夫”の位に次ぐ、”天神”というランクに位置づけられていた明里は、当然人気の遊女であったが、山南敬助の柔らかい物腰や、教養ある人柄に惹かれたのかもしれない。(一説には、山南が新選組を脱出した際、明里を一緒に連れて行った、ともある)
明里と山南は、彼が切腹前に閉じ込められていた座敷牢の格子越しに、今生の別れを交わした…と言われている。
だが、この逸話はあまりにもロマンチックすぎて、後年の創作なのではないか、と言われているようだ。
山南敬助と土方歳三は、なぜ不仲だったのか?
今日(2月23日)は
新選組:山南敬助が切腹した日です。みんなから嫌われた新選組の中でも1番京の町の人から人気があったお人好し。お墓参りの人も途絶えなかったそうです。#新選組#山南敬助#風光る pic.twitter.com/O5hAuHOlJ8
— 千 (@_shenn__) February 23, 2018
脱走した理由について、山南敬助は誰にも語ることはなかったようだ。
彼が切腹する際、介錯を務めたのは沖田総司であるが、その沖田にも、そして局長である近藤勇にも、決して本当の理由を明かそうとしなかったという。
そこに大きく関係しているだろう、と推測されるのが、同じく副長であった土方歳三との関係である。
無論、この2人も、出会った当初から不仲であったというわけではない。
記録によれば、文久3年に大坂で起きた”岩城升屋事件”という事件では、浪士を撃退する際、刀が折れてしまった山南敬助のことを、土方歳三がかばいながら戦った、という記録がある。
このことからわかるように、2人の仲は最初からこじれていたわけではなさそうである。
しかし、新選組が勢力を拡大し、組としてどんどん成長していくにしたがい、組の運営方針や新選組隊士としての思想をめぐって、2人は対立を深めていくこととなる。
新選組ははじめ、「尊王攘夷」を掲げて活動を始めていたはずだが、組が大きくになるにつれて、その目的をどんどん失っていった。
あくまでも「尊王攘夷」にこだわっていた山南と、出世を目指す近藤についていきたい土方とは、考え方を異にしていったのであろう。
このことから、山南の新選組に対する不信感が募っていったと考えられる。
山南敬助が逃亡を企て、屯所に連れ戻された際、多くの隊士は、山南敬助に同情的だったという。
特に伊東甲子太郎や、永倉新八など、新選組の主力メンバーからは、「このまま脱走しろ」と言われていたのだとか。
だが、山南敬助は脱走することはなく、自分の死を受け入れたと言われている。
もしも、新選組の掟の中に、「逃亡者は切腹」という項目がなければ、山南敬助は違った形で、歴史の表舞台で活躍していたのかもしれない。
文中で登場人物の名前が間違っております。
校正はしっかりしましょう。
×伊藤甲子太郎と長倉永八
◯伊東甲子太郎と永倉新八
修正させていただきました。
ご指摘まことにありがとうございます。
近藤勇って天然理心流ですよね?
修正させていただきました。
どうもこの記事はミスが多かったようで、ご指摘まことに感謝です。