戦国時代

怪力無双の豪傑武将・出羽の延沢満延と越後の小島弥太郎の伝説

延沢満延と小島弥太郎

戦国時代にはその怪力を発揮して活躍した豪傑武将が何人もいた。

越前の朝倉氏に仕えた「太郎太刀」「次郎太刀」を使いこなして戦場を暴れ回った真柄直隆・隆基(まがらなおたか・たかもと)親子は、当時の日本では肩を並べる者がいないとされた力持ちであった。

そんな真柄親子に負けない逸話を持つ豪傑な武将が、出羽の最上義光に仕えた延沢満延(のべさわみつのぶ)と、越後の上杉謙信に仕えた小島弥太郎(こじまやたろう)である。

しかし、姉川の戦いで壮絶な死を遂げた真柄親子に比べて、この両者はあまり知られてはいない。

知られざる豪傑武将、延沢満延と小島弥太郎について迫る。

延沢満延とは

延沢満延(のべさわみつのぶ)は出羽国(現在の山形県)野辺沢城主・延沢満重の嫡男として天文13年(1544年)に生まれる。

幼い頃から体が大きくて怪力の持ち主であった満延は武勇に優れ、身長は六尺(約180cm)を有に越していた。

山形県の長谷堂清源寺には、こんな伝説が残っているという。

16歳か17歳の頃、力自慢の若侍が集まり武勇の話をしていると、その一人が満延に
あなたは大変な力持ちだそうだが、山形両所宮に大きな鐘が釣ってある。鐘を持ち上げられるかどうか見せてくれないか?」と尋ねた。

延沢満延と小島弥太郎

※梵鐘 イメージ画像

すると満延は皆と一緒に鐘の前に行き、瞬く間に鐘を取り下ろしてひょいとかかげて自由自在に頭の上で回して見せた。
それだけではなく、鐘をお手玉のように扱い「提灯より軽いじゃないか、この程度の鐘を大げさな」と言った。

さらに満延は「この鐘を俺にくれないか、地元の鶴子まで持って帰りたい」と、鶴子まで10里(約40km)以上離れていたが、本当に担いで持って帰ってしまったという。

延沢氏は天童氏を盟主とする最上八楯の一員で、出羽国の有力な国人衆の一つであった。
山形城主の最上義光とは長きに渡って争いが絶えず、最上軍を何度も破ったという。

延沢満延と小島弥太郎

※最上義光

最上軍と天童軍の戦いの中で最上軍が城へと迫ると、たった一騎の兵が打ち出て来た。

八角形の兜、黒糸威の鎧と鎖帷子、手には五尺一寸(約1.54m)の鉄棒を握りしめたその兵は、たった一人で最上軍の中に突入し、あっという間に最上軍の兵たちをなぎ倒していった。それが満延であった。

義光は満延を抑えないと最上八楯には勝てないと考え、満延の嫡男・又五郎に娘・松尾姫を娶らせて満延に大きな譲歩案を提示し、最上家に引き抜いたという。

他にもこんな伝説がある。

義光は満延の剛力を試してみたいと、最上家中の力自慢の男7人を連れて満延の屋敷を訪れた。

義光と共の7人は同じ紺と黒地の浴衣姿で現れ、満延が義光に「酒を用意していますから広間へどうぞ」と出迎えると義光は「今宵は無礼講、者共満延にかかれ」と叫ぶ。

まず2人が満延に組みつこうとするも浴衣を掴まれて投げ飛ばされてしまう。
残りの5人が光延に飛び掛かったが、正面の者は蹴飛ばされて、脇から行った者は殴られて、後ろの者も振り回されて突き飛ばされた。

義光は「余興じゃ許せ」と裸足で庭へ逃げたが、満延に羽交い絞めにされた。

義光は苦し紛れに近くにあった桜の木にしがみついたが、満延は桜の木ごと義光を引き倒してしまう。

義光は「満延あっぱれ」と感心し、満延を山形城に招いて褒美を渡したという。

満延が義光に仕えたことで最上八楯は崩壊し、最上家は出羽国を平定したのだった。

小島弥太郎とは

延沢満延と小島弥太郎

英雄六家撰 鬼小嶋弥太郎一忠

小島弥太郎 は越後国(現在の新潟県)の妙高高原辺りの出身で長尾為景(上杉謙信の父)の代からの家臣であった。

長尾景虎(上杉謙信)の幼少期からの側近であり力士衆でもあった。身長は六尺(約180cm)を超していたそうだ。
景虎が14歳で修業に出た時に同行した4人の中の1人で、かなり近しい存在だった。

小島弥太郎にも伝説が残っている。

天文22年(1553年)上杉謙信の上洛に際して諜報の者から情報が入る。

足利幕府第12代将軍で剣豪だった足利義輝が、自身が飼う凶暴な大猿で謙信を襲わせ、どんな反応をするか肝試しを画策しているとの情報が入る。

それを事前に知った謙信は弥太郎を一足先に京へ先行させた。

弥太郎は大猿が飼われている番所の役人に取り入り、檻に近づいて餌を与えるすきに大猿の腕を捕まえて力任せに鉄格子に押さえつけた。
さすがの大猿もその怪力に泣き叫んだという。

上洛の当日、謙信の一行が通る道に大猿が牙をむいていたが、謙信一行が通り過ぎても大猿は怯えて伏していた。謙信の横には弥太郎がいたのだった。

他にもこんな伝説がある。

弥太郎は数々の武勇や兜の前立てと背中の指物(旗)に鬼があったことから「鬼小島」と恐れられていた。
川中島の合戦で弥太郎は謙信の使者として武田信玄の陣に赴いた。

信玄は悪戯で弥太郎を慌てさせたかったのか「人喰い獅子」と異名を持つ猛犬をわざと陣に放した。
そんなことを知らない弥太郎が信玄の前で口上を述べていると、猛犬が弥太郎に噛みついた。

噛まれた弥太郎は顔色一つ変えずに口上を述べ、信玄の返事が終わると、猛犬の口元を握りしめて地面に叩きつけ猛犬を殺して、何喰わぬ顔でその場を去ったという。

延沢満延と小島弥太郎

※「甲越勇將傳武田家廾四將 :山縣三郎兵衛昌景」1848年作

また、川中島の合戦で武田軍の猛将・山県昌景と一騎打ちの最中、信玄の嫡男・義信が窮地に陥った。

昌景が弥太郎に「主君の御曹司の窮地を救いたいので、勝負を中断したい」と願い出ると弥太郎はそれを快諾した。
恩義を受けた昌景は弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛したという。

川中島の合戦から退去する際、弥太郎は謙信と行動を共にしていたが、自分が深い傷を負っていたため、足手まといにならぬように自害したという。
何という豪傑で勇ましい忠義の武将なのだろう。

さいごに

延沢満延が運んだとされる鐘は山形市の清源寺に現存している。

小島弥太郎は実在が疑われているが、墓とされるものが長野県飯山市の英岩寺にあり、鬼小島弥太郎戦死の地碑が長岡市にある。

 

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